「造型」のセザンヌ受容とその思想環境

永 井 隆 則

はじめに

第 I 章「造型」のセザンヌ受容

(1)  「造型」と「造形」

(2)  「造型」のセザンヌ受容

①  外山卯三郎

②  成田重郎

③  矢代幸雄

④  「造型」批評の流通

(3)「造型」批評とセザンヌの美術史上の位置付け

第 II 章「造型」批評の理論的枠組み:抽象芸術論の確立

(1)  「造型」批評の起源:フォーマリスム

(2)  欧米における抽象美術論の確立一日本との関係から

(3)  日本における抽象芸術論の確立

①  長谷川三郎

②  瀧ロ修造

(4)「造型」批評の理論的枠組みとしての抽象芸術論

第 III 章抽象芸術論の思想環境:機械美学

(1)  村山知義

(2)  板垣鷹穂

(3) 中井正一

おわりに

Resume

 

はじめに

1930-40年代の日本では、「造型」という批評言語ないしは価値観に従ってセザンヌ(Paul Cézanne,1839-1906)が評価された。平成15 (2003)年度『人文』誌上1で明らかにした通り、他方で、同時代、「写実」という批評言語によってセザンヌが受容され、そこでは、「造形」が基本的な条件として前提とされていた。本稿は、「造型」によるセザンヌ受容とその思想背景を明らかにする事を目的とするが、まず、「写実」の「造形」に対して、「造型」が当時、どのように規定されていたかを明らかにした上で、「造型」によるセザンヌ解釈、そして「造型」批評を浮上させた思想環境を最後に明らかにする。

 

第 章「造型」のセザンヌ受容

(1)「造型」と「造形」

当時、両者の区別を最も意識的に明快に区別したのは高村光太郎(たかむら.こうたろう、1883-1956)であった。

昭和17 (1942)年に出版された『造型美論』という論集に収められた、昭和15 (1940)年執筆の「素材と造型」において、「造型といふ語」にっいて以下のように規定している;

「造型、又は造形といふ言葉はもともと飜譯語である。恐らく森鵾外博士がハルトマンの美學を祖述した「審美綱領」(明治32年6月刊)中に使用されたのが最初と言えるのではないかと思ふ。ハルトマンの藝術の分類法に従って、低級藝術、覊絆藝術、自由藝術、複藝術と分けた中の、自由藝術の部に於ける「官能に係るもの」に屬する空間靜視象の藝術、即ち「造形術」と譯してあるのである。ハルトマンは此の造形術を繪畫と彫塑とに限ってゐる。

人によっては此を成形藝術とも譯してゐる。

今日では、造型又は造形といふ言葉が一般の耳に馴れ、また造語の意義から言っても妥當性が多いので、ほぼ此の言葉に落ちつきさうになってゐる。

造型と造形とは全く同意義の場合に、人によっては随意にどちらでも用ゐられてゐる現状であって、別に區別があるわけではない。私も従来時によって造型とも書き、造形とも書いた。造形といふ方が素直なやうでもあるが、又考へてみると藝術の究極が常に未知の美の原型を求めようとするところにある事を思ふと、造型といふ造語の方が面白いやうに思はれる。私は今姑らく造型といふことにきめて置く。畫かれたものが「個々の林檎」(形)であると同時に、「永遠の林檎」(型)であるといふセザンヌの場合がこれを暗示してゐる。」2

ここで、形が個別的形であるとすれば、型は不動の固定した形(「原型」)を意味しているが、これを、作者自身の感覚的価値観の形、ないしはそれに従った自然の普遍的形として、別の箇所では、以下のように説明する。

「すなはち造型とは、自然現象をもう一度自己の感覺を通して見た表象形式を創造することであり、従って、造型藝術の本質は、われわれの内部に起る價値感の表現に由来してゐて、自然形象のうしろにある、或は形象の内にあるとわれわれの感ずるカ價を表出して、其處に確實な存在感を求め、更に進んで高度な充實感、擴充感、満ちあふれるもの、有り餘るもの、氣韻の生動するもの、逝く水の絶えざる如きもの、永遠へのはるかなるっらなりを思はせるやうなもの、すべてさういう類の生命感をそれぞれの技術によって得ようとするいとなみである。」3

また別の箇所では、「造型的諸要素」、「造型美」を以下のように具体的に説明する。

「從って造型的要素を成すものは、この空間を構成する諸要素に外ならない。即ち、空間の充填としての量。量の區分から来る意味での面。區分から起る量と量の攻め合ひの均衡。均衡に必須な面の比例。それらを貫いて統一に至らしめる動勢。これらの形式の根幹を成す諸要素の外に、繪畫に於ては色彩の世界として此と同比例な色彩的均衡、相反、調和の諸要素が加はる。更に造形的製作といふ工作の上から繪畫にも彫刻にも、觸覺的要素といふ重大な條件が其の全體を左右する。これらの諸要素の組合せによつて一つの小宇宙的構成が成就され、その各のカ價の無限の變化ある消長が行はれて、其處に嚴とした交響楽的な造型美が成立するのである。人間精神の深奥から産出される美の中で特に造型に依らなければ表現出来ないものが斯くして出来上るのである。」4

即ち、「造型」とは、「量」、「面」、「量と量の攻め合いの均衡」、「面の比例」、「動勢」、「色彩的均衡、相反、調和」、「触覚的要素」であり、即ち、自然対象の模写、再現ないしは写実の関係といった主体と客体の関係にまなざしを向けるのではなく、出来上がった画面の自律的特徴に目を向けこれを記述しようとする。

「造形」と「造型」を意識的に区別した評者として、もう一人、三雲祥之助(みくも.しょうのうすけ、1902-1982)は、

「フォルムといふ言葉を私は「かたち」と釋したいと思ふ。漢字の「形」と「型」の中何れが適當なものか知らない。或いは他にもつと適した文字があるかも知れないが、「形」と「型」の何れかを選ベといふならば、こ々では「型」の方を選びたいといふのは「型」の「かたち」の方が「形」よりも靜止的な意味があるやうに思へるからである。「形」の方は動いているもの々「かたち」即ち「すがた」の意味にも使はれさうである。」5

「形」は動いている「かたち」、「型」は固定した「かたち」という区分は、基本的に高村と同一である。拙稿「「写実」のセザンヌ受容とその思想環境」において1「写実」の基礎を成す形成過程を「単純化」、「幾何学化」、「変形(デフォルマシオン)」、「省略」、「強調」として指摘したが、これは、画家と描写対象との形成過程に於ける関係性を意味し、動いている形、高村、三雲に従えば、「造形」であった。

こうした「造形」と区別される、高村、三雲の言う意味での「造型」ないしは「型」は、20年代に登場し、30年代にセザンヌを評価する重要な視点として浮上してきた。其の幾つかを以下で紹介していく。評者によっては、以上規定した「造型」を「造形」と標記したり、全く別個の言葉を使用しているが、標記としての言葉ではなく、言葉の指す意味から判断して、「造型」が共通の価値観として流通していたことを例証してみたい。

 

(2)「造型」のセザンヌ受容

高村、三雲の意味で「造型」を規定すると、必ずしも「造型」という言葉を使っていなくとも、以上定義した意味での「造型」が、美術批評の価値基準として機能したことが明らかとなる。以下で、「造型」の視点からセザンヌを解釈した批評文を紹介していきたい。

 

⓵ 外山卯三郎(とやま•うさぶろう、1903-80)

1926年、木下孝則、前田寛治、佐伯祐三、里見勝蔵、小島善太郎の組織した1930年協会を擁護した外山は、20年代から30年代に掛けて近代美術史に関する多数の著作を残した6

外山は、野獣派の絵画を主に念頭に置き、自然対象を主観的に捉え画面に実現する態度としての「写実」と自然対象とは独立した画面上での構成という活動としての「造型」という二つの批評形式を共存させながら、現代絵画の「造型」の側面を「純粋絵画」と呼んだが、その出発点となったのが、外山によれば、セザンヌであった。

「純粹繪畫」は、

「そのモチイフからではなく、畫面から出發しなければならないことを見出すだらう。言葉を換へるならば、純然たる作家は單なる外物を描くのではなく作家の内面に現れた感動を表現するものである。従つて作家にとつて、先づ「畫面」Surfaceがなければならない。即ち作家の感動の表現が可能なるためには、先づ「畫面」が先立たねばならぬ。而して純梓な繪畫にとつて、それが如何なるモチイフであるかが問題となるのではなく、そのモチイフが如何に表現されるかが問題でなければならない。言葉を換へるならば、その「繪畫」に表現されるものが風景であるか人物であるか又靜物であるかが問題ではなく、その風景なり人物又は静物が、如何に畫面を構成するかが問題でなければならない。これが現代繪畫の最初の出發であつたと言へる。」7

別の処では、「繪畫的なもの」という言葉を使い、これを以下のように規定した。rr繪畫的なもの」とはだ唯だ視るためにのみ視らる可きものを意味している。唯だ視らる可きものと言つても、繪畫には特に繪畫的にのみ視らる可きものをがなければならない。然しその可視性も亦、繪畫の對象と考へられるものに於いては、二次面的なものでなければならない。即ち如何なる彫塑的なものでもなければ、また建築的なものとも異なつてゐる、二次面的な畫面に於いて視らる可き「繪畫的對象」が考へられねばならない。「畫面」(die Oberflaeche) とは二次面であるために、この繪面を構成するものとして第一に考へられるものは「線條」(die Linie) であると言へる。第二に線條に依つて規定されるこの畫面を質量づける色彩と描寫がなければならない。繪畫に於ける「色彩」(die Farbe)とは寒色から暖色に擴がる一つの色彩組織. (Farbenskara)を有するものであり、畫面の量(das Volum)を與へるものであると同時に、質的表現をなすものである。而して是等の線條のもつ性質と感覺と、色彩のもつ量感質感とを一つの畫面に形成する「構圖」(die Komposition)が考へられねばならない。この様に現實にある物質の説明ではなく、これ等の「繪畫的なもの」を對象として、唯だ繪畫的にのみ表現するところに、繪畫の特質があると言はねばならない。8

外山がここで強調する「繪畫的なもの」とは、「二次面的な」「畫面」(dieOberflaeche) の「線條」(dieLinie)、「色彩」(dieFarbe)、「畫面の量」(das Volum)、 「構圖」(die Komposition)の特質、即ち、自然に関する表象から独立した別個の、二次元の「畫面」上の自律的秩序、に他ならない。この点で、高村の規定する「造型」と論点を同じくしていたとみて差し支えない。但し、高村との違いは、高村が画面の触覚性を「造型」に加えているのに対して、絵画を純粋に「可視的なもの」と規定している点にある。

外山は、こうした「純粹繪畫」、ないしは、「繪畫的なもの」の重要な達成者として、セザンヌを以下のように、高く評価し、その活動を「現實化」realisationというセザンヌの言葉で要約した。「この繪畫に於ける構成的方法を自覺し強調したのはポール•セザンヌであつたと言へるだらう。セザンヌは畫面の綜合的統一を要求するために、單純化された構圖を思惟した。即ち單純化による畫面の統一法は、セザンヌの好むで用ひた「集中的構圖」konvergente Komposition と共に用ひられた純梓な繪畫的特色であつたと言へるだらう。セザンヌに言はせるならば、畫面に於ける「効果」とは、畫面を構成し又統一し、集中することである。これを主要な一つの點に於いて作らねばならないと。このやうな思惟から彼の畫面には、その全畫面に對する統一點が求められた。セザンヌはこれを畫面に於ける「頂點」Point culminantとHつてゐる。即ちこの「頂點」をとつて、彼は集中的な畫面の統一を企てたものである。即ちこのセザンヌの畫面構成に於ける主要な契機は、繪畫的な面の把握である。これは單なる平面的な面ではなく、ヴォリュームの効果を主とする面であると考へられる。従ってセザンヌは物質感をその面の表現に依つて把握するが故に、物體のもつ面の研究を非常に重要視してゐたと言へる。畫面と畫面との関係に依つて、物體感とその立體性を表現することを指して、セザンヌは繪畫の「現實化」realisationと言つてゐる。」9

 

⓶成田重郎

成田重郎は、1921-24年頃、パリに滞在し、ソルボンヌ大学の近代美術史家シュネーデルの指導の下、フランス語でセザンヌ論を執筆し、帰国後その日本語版を発表したり(成田重郎、「セザンヌ研究緒論」『アトリエ』第8巻第6号、昭和6 (1931)年6月、5-16頁/「セザンヌ研究緒論(2))『アトリエ』第8巻第7号、昭和6 (1931)年6月、5-15頁」、ジョアシャン•ギャスケのセザンヌ論の翻訳(Joachim Gasquet,Cézanne,Paris, Edition Bernheim-Jeune,1921, 『畫聖セザンヌ』東京堂、1942年)、ソルボンヌ大学でセザンヌに関して博士号を取得し、1936年博士論文を出版したジョン.リウォルド(John Rewald,1912-94, CézanneetZola,Paris,éd. A Sedrowski, 1936) のセザンヌ論の紹介(成田重郎、「セザンヌと少年時の友ゾラ」『アトリエ』第13巻第2号、昭和11(1936) 年2月、32頁)などを行い、1930-40年代に今日で言う、いわゆる西洋美術史家として活躍した。

成田はそのセザンヌ論の中で、「造型」という言葉を使ってはいないが、「純粹繪畫」、或いは「造型」に相当する「プラステイック(plastique)」というフランス語を使って、セザンヌの「造型」を以下のように説明した:

「セザンヌが純粹繪畫の實現者であった輝しい業績(…)セザンヌが、繪畫をかくして、文學から、傳説物語から、展覧會から、解放した事実には、その功績、真に没すべからざるものがある。繪畫は繪畫のためにのみ描かれる。繪畫は、畫家の内生活の自由な表現である。さうして、内生活を豊かにして、それを、感激をもつて満ちあふれしめ、永久の悦びによつて、輝きあるものとしてやまないものは、實に自然である。(…)『セザンヌは、口癖のやうに、かう言つてゐた。一自然のあらゆる形は、圓錘に圓筒に、圓體に、歸結せられる。』これは何を意味したか。(…)しかも、セザンヌは、か々るプラステイックなるものを、漸次、光の遊戯のなかから取り出して、それだけを大づかみに描き出し、それを圓錘に、圓筒に、圓體に歸結しようと、考えつくに至つたのである。これが新繪畫への第一歩である(…)つひに、立体派(Les Cubistes)がーつの流派としての存在を見ること々なるのである。)10

成田にとって「純粹繪畫」とは、絵画が、文学や逸話から独立する事であり、「プラステイック」とは、_然を幾何学的純粋形態に還元する事であった。

 

⓷ 矢代幸雄(やしろ•ゆきお、1890-1975)

矢代幸雄は、フイレンツヱで、美術史家、ベレンソン(Bernard Berenson 1865-1959) に師事し、イタリア•ルネサンス美術の研究者として出発し、昭和2 (1927)年美術研究所の設立に参画、現東京文化財研究所に長らく努め、東洋美術の研究にも業績をあげた。11

矢代は、昭和7 (1932)年6月26日から28日に掛けて、美術研究所で、「西洋近代繪畫展」を開催したが、その図録の中で、複製による西洋美術受容のあり方を批判して美術館を建設しオリジナルを収集•展示する必要性を説いた。このテクストで、近代美術の代表者としてセザンヌに多くの行数を割いたが、オリジナル重視の矢代の視点は、セザンヌを評価する際の重要なポイントとなっている。矢代の眼差しは、セザンヌ絵画の技巧や、画面そのものの特質、即ち立体的構成という「造型」に向けられた。

「(…)セザンヌの超法則の法則建設といふ天才の壮觀は展開したのである。實に彼の油繪ほど従来の油繪の傳統を破つて自由なるものはなく、然しながらまた彼程に、殆ど理詰めと見ゆる畫面の構成と筆致とを以つて、自己の理解通りの表現に肉迫したるものもない。彼の油繪の技巧は實に莊嚴である。

自然は球と圓綞と圓筒によって成立つといふ意味を道破したほど立體的感覺に富み、實在の原

理を塊の構成によつて理解し表現することを造型芸術の本質と考へたセザンヌは、繪畫の任務に關する理解が従来より謂はば立体的に轉向しただけそれだけ、油繪の技巧をも同じ方向に転向させる必要性を咸じた。」12

そして、セザンヌの立体的構成のための具体的手法を、素描と色彩布置の両面から以下のように記述している。先ず、素描に関しては、

「セザンヌ藝術の主興味は立體的なる表現であって、彼はこの立體的組立てに就いては、大抵の場合、畫面に於ける第一の着手として前述の彼の第一の調子描きによつて、大體を配置して了つて居るのである。(…)最初の彼の調子描きによりて物體の立體性だけを荒削りに出した儘の未完成畫、或は、それに数種の地方色を加へて畫面を生き生きさせた程度の未完成畫は、セザンヌの遺作中には、數多く発見され、是等は實に面白いものである。」13

更に、青や紫の使用法に注目し、色彩布置の側面から、「セザンヌの特有なる描法」による立体構成として以下のような分析を行った。

「(…)セザンヌの特有なる描法一紫青色の調子描きによつて畫面の立體的纏りをつけ、多彩は部分的に單に嵌入して行くといふ統一的描法も、實は、印象派作家のやうに表面の刹那的變化に迷はされずに、直に、恒久的なる立體的實在に迫らうとした彼の根本思想に遡源するものに他ならぬ。」14

即ち、線とりわけ青紫の線を使った画面の骨格形成という描法こそ、矢代はセザンヌの「造型」の核心と見なしていた。

 

⓸「造型」批評の流通

以上紹介してきた「造型」よるセザンヌ解釈は、決して特殊な個別的解釈ではなく、当時の雑誌に掲載された美術批評を網羅的に調査した限りでは30-40年代に広く流通していた、と思わ

れる。15

以下でそれらの批評文を管見の限り紹介していくことにする。

田ロ省吾は、「プラスチック」と「造型」という言葉を使いながら、

「セザンヌはひたすら空間のプラスチックな構成を探求した。崖や林檎や自畫像は物象の造型を表現する一の手段となり、對象の常識的な説明は大して問題にされなかった。此處に絵畫の革命の一端は、はつきりと見られるのだ。」16

と、指摘した。

第二次世界大戦後、抽象作家として活躍した、画家、難波田龍起(なんばた•たつおき、1905-97)は、1930年代、「主観的な繪」に対する当時の批評による批判を受けて、「主観(詩)」に対して、「造型」を「客観」とし、両者の一致に理想の絵画が生まれるとした。

「主観的要素を豊富に盛ることは、造型を薄弱にする恐れがある。いかにも内容が豊富だがデッサンが弱い。そんな批評が縷々主觀的な繪に下される。しかし自己の主觀を強調すればするほど客観的に物を凝視める機能が高まる害だと私は思ふ。主観(詩)と客観(造型)の一致こそ我々の追求するタブ口才でなければならない。」17

そして、その模範をセザンヌに求めた。

「畫家は實技家である。従つて作らずにはいられないのである。そして畫家が自己の畫面によって思考する時、彼は哲學者である。彼は畫面に人間の深さを求めずにゐられない。セザンヌはさうした意味での哲學者であった。彼は恐らく孤獨の裡に己が畫面と對話してゐたに違ひないセザンヌは豊富な詩を造型の追求で押えてゐた。彼は文學的表現に引かれてゐたが故にそれを拒絶して、より純粹な造型的なタブ口才を作らんとした。けれどもセザンヌのタブ口才は、一篇の深く物の實在に透徹した詩に外ならない。詩を解放しても造型の探求を見失はないならば、シュール.レアリズムの作品も亦よきタブ口才である。」17)

ドラン(André Derain,1880-1954)や新古典主義時代のピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973) から着想を得て制作した、洋画家の伊原宇三郎(いはら•うさぶろう、1894-1976)は、モネ(Claude Monet,1840-1926)とセザンヌを比較し、「プラステイック」という概念をセザンヌ解釈のキーワードとして、

「モネ一は、物體の表面を描くに忙しかつたが、セザンヌはそれに慊らず、もつと眞實なもの、物體の實質を掴み、物體の厳粛な存在を捉へたいと努力した。そして又、繪畫の中から、文學的なものを驅逐して、プラステイックなエレマンのみで繪畫を創りたいと希つた。」18

と述べた。

洋画家、黒田重太郎(くろだ•じゅうたろう、1887-1970)は、1920年代初頭から雑誌『制作』、『中央美術』等で評論活動を始め、第2次世界大戦後に至まで、数多くの美術評論を単行書の形で出版し続けた。19黒田は、管見の限りでは、「造型」ではなく、「造形」という言葉をテクストで使用するが、黒田が「造形」と言う時、2次元画面のg律性律的秩序)を意味しており、「造型」の批評をいち早く日本に導入した批評家であった、と言える。例えば、黒田は、1925年、絵画を以下のように定義した。

「繪畫が複製された自然でなく、また個性を通じてあらはされたそれでもないとすれば、それは果して如何なるものであらうか?答へて日く、恰も工匠が家を建る様に、我々は自然から任意の材料を撰び出して、これに明確な形を與へる。繪畫とはか々る方法に依つて、與へられたるニ延長の裡に、萬有存在(…)の法則に従つて建設された一つの新しい世界であると。我々の感動や思索はこの世界の建設を統一するものである。」20

或いはもっと具体的に、絵画活動を規定して、

「物象の正確な模倣を目標として制作されるものは標本畫である。繪畫は繪畫その者の眞實に立脚して表現されねばならない。繪畫の眞實とは線條、色彩、明暗の對照、照應、均衡と、そしてそれ等を統轄する構成を指すのである。これ等純梓な要素を外にして、如何にS然の細部を模倣しやうとも、繪畫の純粹な美は生み出せれない。」21

黒田の言う新しい世界の建設、「構成」、「純梓な美」とは、別の箇所で、「造形」という言葉によって、置き換えられている:

「繪畫に於ける純梓な命題は作家その人の造形的感動である。然らば構圖はこの造形的感動を基礎とせねばならない事、自明の理だと思はわれる。」22

黒田の使った「造形」という言葉は、立体派の画家、理論家で黒田が、フランス滞在中に師事したフランス人、アンドレ.ロート(André Lhote,1885-1962)のplastique という言葉の訳語であり23、三〇年代に執筆された黒田の構図論に於いても、その立場は変わっていない。別の箇所で、フランスの象徴主義画家で理論家の、モーリス•ドニ(Maurice Denis, 1870-1943)の有名な公式を紹介して、「一枚の繪は、或る意味に於てドニの云ふ通り『戰ひの馬であり、裸女であり、乃至は何かの逸話(アネックドート)であるよりも前に、本質上或る一つの列序の下に、一つの平面上に結集された色彩』に外ならず、(…)」24と主張し、

「構圖とはそれで、所謂『主題を物語る』ことでもなければ、またそのための『物象の排列』

でもない。それ等は寧ろ假託であり、手段の一部であるに過ぎないのであって、其の眞實な目標は、畫家その人の感動を、如何に繪畫の形式の裡に生かすかにある。斯くてそれ等の『構想』も『布局』も、純粹に『造形的』な方式の下に、集中せられねばならないのである。

して見ると、『造形的な方式』と云ふものが、構圖の方法の中心となってゐることがわかる。造形的(plastique)とは、ある一つのものに定まった形を與へるの意であつて、其れはまた『人間的』であると云ふことにもなる。」25

とし、ロートの言葉、「『すべて人間の藝術的表示は、先づ造形的である。…藝術的感動の深い品質は、厳格に造形的である』」26を引用している。

以上から、黒田が、「造形」を、文学や逸話の説明、自然の機械的模倣ないしは_然との主体的関係としての「写実」(1)はなく、つまりテクストや目に見える外的対象との関係から独立した、出来上がった画面それ自体の構成や秩序付けの意味で使用していたことは明らかで、30-40 年代に批評言語として流通してきた「造型」と同じ意味で「造形」を使っていたと考えて差し支えない。40年代になって、洋画家、伊藤廉(いとう•れん、1898-1983)は、「造型」と「いのち」という価値を切り口にセザンヌを批評している。

「物をみつめるといふその物とは、普通の寫實の意味の認識客體としての物のことであるが、セザンヌのみつめたものは、それよりも物があるときに、その物の量が領有してゐる空間をみてゐたのだといふ方が、本当のやうにおもふのだ。ここでは物の概念からその物は切り離される。その物は眼によつてだけとらへられる。(…)眼によつてとらへられる物がいのちにつながるのは、絶對的なものに關係するからである。(…)絶對性といふことと、空間を占有してゐる物の量といふものと、それを組みたててゐるカ學的構成的なもの、一口には造型性といへるものが、直接にいのち的なものに眼といふ結點をぬきにして交渉するやうになつたのではないのだろうか。」27

パリ大学やエコール•デュ•ルーヴルで学び、大正•昭和期に掛けて美術史家、評論家として活動した、柳亮(やなぎ•りょう、1903-78)は、「造型」という言葉は使用していないが、構図論の見地から近代におけるセザンヌの重要性、即ち、画面の自律性を切り開いた作家として高く評価した。

「繪畫に於ける構圖の意義を、構圖そのものの自律性、即ち自主的目的について考へるやうになったのは、明らかに現代の意識であり、特にセザンヌ以後の傾向である。」28

「印象派に端を發した繪畫の現代的、分極的發展は、繪畫の目的を文學や彫刻との限界、乃至本質的相違に於いて明らかにしたが、同時に絵畫の成因についても、個々の繪畫的要素一色彩、線、形態、構圖等のもつ意義を、それぞれ獨立した価値に於いて明確ならしめやうとするものであった」28

「眞の主題は、むしろ吾々の造形的感動に訴へる形や色やそれらの綜合的な機能そのものを指す」、「主題につひてのこのやうな考へかたは、やはりセザンヌ以後のことであつて、繪畫する態度の上に明確にそれを表示したのはセザンヌを以て嚆矢とするだろう。」29

以上、迪ってきたように、高村、伊藤にとっては「造型」、三雲にとっては「型(フォルム)」、外山にとっては「純粹絵画」ないしは「繪畫的なもの」、黒田にとっては「造形(plastique))、成田、伊原にとっては「プラステイック(plastique))、矢代にとっては「立体的なる表現」、田ロにとっては「プラスチック」ないしは「造型」、難波田にとっては「造型」ないしは「客観」、柳にとっては「構圖」と用語にばらつきはあるが、その意味するところが共通に、高村の規定した、画面の自律的秩序ないしは構成を指し示す批評を「造型」であると規定すると、「造型」批評は、20年代初頭の黒田あたりから始まり、40年代高村によって明確に定義され、広くセザンヌを評価する基準として30-40年代に普及したと見てよいだろう。     この価値基準は、セザンヌの美術史上の位置に附いて共通の認識を伴って使用された。それは、立体派ないしは抽象美術の開祖として、セザンヌを評価する視点であった。以下で、その幾っかを紹介する。

 

(3) 「造型」批評とセザンヌの美術史上の位置付け

セザンヌを立体派の祖として位置付けた最も早い例の一つは、筆者の知る限り、大正•昭和期の小説家、劇作家の、久米正雄(くめ•まさお、1891-1952)が1916年に翻訳した、1914年出版、アーサー.ジヱローム.エッディの『立體派と後期印象派』であろう。

「セザンヌは、彼の道に於て全く精確なる思索家であった。例へば彼は_然の形状及び色彩の觀念を次の如く説明した。『自然の萬物はすべて圓球、圓錐、圓筒形の線を以て型(かたど)られる。而して人はそれらの單純な形を如何に描くべきかを了解しなければならない。さうすれば何でも書けるやうになる。圖様(デザイン)と色彩(カラー)は離れ離れなものではない。色で描く範圍まで精細に下書をして置くものである。色がよく調和すればする程、圖様は明瞭になり純粹になる。色が最も美しく出來上ってゐる時は、形式も完成の域に達してゐる。調子の對照と調和一これが描畫及び素描の秘訣である』(エミール.ベルナールの「セザンヌの回想」より)球形と圓錐及び圓筒の線を、すべての藝術の原素と暗示した處に、人は立體派の伊呂波(アルファベット)を認める。」30

また、評論家、森ロ多里(もりぐち•たり、1892-1984)は、イギリスの美術批評家、クライブ•ベル(Clive Bell, 1881-1964)の芸術論を紹介し参照しながら、セザンヌの抽象性を指摘し立体派の祖と位置付けた。

「「抽象的」といふことは、「非寫實的」又は「文學的」(ママ)といふことと殆ど同意義である。視覺で認識したま々の物象の表面をそのま々寫す或は文學的興味を與へる手段として形象を假りるといふ境地から脱却して、視覚と心との協力作用によって、自然界に秩序、律動、諧調一ひっくるめて内面的諧調と呼んでもよい一を見出すといふ境地にあっては、畫面を構成する形象は形象としての獨立した存在をもっのであって、自然の寫しでもなければ、詩趣を傳へる手段でもない、そしてこのやうな獨立した形象の諧調は當然抽象的(アブストラクト)な性質のものである。そしてその諧調の構成は、決して手先で機械的に組立てられるものではなく、人間の内心に潜んでゐる、諧調に對する慧敏な感應性の活動によって漸く観照され得るのである。そこには、「形似」とは反對の「抽象」がある。それ故に近代藝術にあっては意匠(デザイン)が最も重要視される。蓋し、こ々に言ふ意匠とは、内面的諧調の創造を意味するからである。

しかしまた抽象的性質とは、自然を抽象的形体の諧和として見るといふことをも意味する。勿論それは矢張り形象を形象として観照する結果であるから、結局前述のこと々同意味である。

セザンヌも「自然はすべて球体、圓錐体、及び圓筒体でもって追求されなければならない、色とても同様で、色は諧調的(ハーモニアス)になればなるほど益々デザインが精密になる、」と言ふてゐる。このやうな自然を球体や圓錐体やの如き抽象的形体として觀照するといふ境地を極端に高調したのは、パブロ.ピカソ(Pablo Picasso1881-)である。」31

成田重郎も、既に紹介したように、セザンヌの有名な公式を引き合いに出して、立体派の祖とする。

『セザンヌは、口癖のやうに、かう言つてゐた。一自然のあらゆる形は、圓錘に圓筒に、圓體に、歸結せられる。』これは何を意味したか。(…)しかも、セザンヌは、かかるプラステイクなるものを、漸次、光の遊戯のなかから取り出して、それだけを大づかみに描き出し、それを圓錘に、圓筒に、圓體に歸結しようと、考へつくに至つたのである。これが新繪畫への第一歩である(…)つひに、立体派(Les Cubistes)がーつの流派としての存在を見ること々なるのである。」32外山は、

「このセザンヌの企た道は、二十世紀の現代に来て非常な勢力を持つやうになった。繪畫は單なる自然の模写でもなければ、自然の再現でもあり得ない。繪畫はどこまでも、純梓なタブ口才の世界であり、その純梓な絵畫面を表現するために、風景がそのモチイフとして撰ばれるものである。それ故にそこには純粹な畫家のエスプリが歌はれ、絵畫的表現が主とならねばならな

い。」33

とし、具体的には、立体派(外山はこれを「フォルマリズム」と呼ぶ)の開祖としてセザンヌを位置付けた。

r (…)セザンヌの風景畫に關する考察によつて、次のやうな言葉が述べられてゐる。

一自然に於いては、萬物悉く皆球と圓錐として形づくられてゐる。これ等の單純な形に依つて描くことを學ばねばならない。一このやうなセザンヌの述べたデフォルマシヨンに關する言葉は、遂に立體派と言はれる一つのフォルマリズムを生むことが出来た。」34

或いは、

「厳密な意味に於てセザンヌ以後の西歐繪畫と云ふものは、繪畫といふ純粹な意味での造形を意圖するやうになつてゐる。特にフォウヴイズム以後、即ちキュービズム時代になると、其の繪畫上の探求と云はる々ものが、殆ど畫面上の構圖問題に集中されたと云ふことが出来るだら

う。」35

とし、

「純粋な意味での造形」を「畫面上の構圖問題」と見なしながら、それがセザンヌ以後の西洋絵画の課題となったとする。言うまでもなく、^•山がここで使った「造形」は、本稿で規定した「造型」の意味に他ならない。

更に、別のところでは、抽象美術が誕生し、日本にでも市民権を得てきた、外山の生きた現代美術の祖としても位置付けられた。

「現實を其の構成分子たる色の平面に分解するといふこと、(これは既にセザンヌによつて發見せられたことであります、)及び其れを再び新しく自由に繪の平面の上で結合するといふことは、個々の事物をではなくて、事物を形づくつてゐた空間を創造することなのであります。さうして、丁度、人が製圖をする場合に於ける如く、現實的な形が展開されてをるといふことによつて、感受者の空間に於ける運動に伴ひ時を追ふて感受された所のいろ々々の部分が、畫面に於ては同時に表現されてゐるのであります。これが即ち一つの平面の上に他の平面が重なつてゐたり、また一つの線が他の線に交叉してゐたりする理由であり、これが即ち、貼り付けられたいろ々々な布地や、突き刺されたツマ楊子などが畫の平面から空間へ抜け出してゐたりする理由でもあるのです。

この様な抽象的空間、竝びに運動の新しい感受は實に根本的、原理的性質のものなのでありまして、其れは今や西歐羅巴諸國に於ても、或ひは封鎖されてゐたロシヤに於ても、またアメリカに於ても、乃至また、あれ程長い間、叙事詩と叙情詩とを以て自然を謳つてゐた日本に於ても、

時を同じく現に發育しっ々あるのであります。」36

矢代は、現代美術の動向を二っに整理して、

「後期印象派以後現代に及ぶところの畫壇の轉向には、ニ個の重なる方向があった。一っはセザンヌによって建設せられたる、末梢神経の鋭敏を誇らずして本質的理解に進まんとする藝術、華麗なる感覺と感傷との踊りを脱却して、素樸單純に造型の原理を掴もうとする、謂はば、立体派構成派とも云ふ可き方向である。今一っは、この實在の本質に肉迫しようといふ眞向なる態度から外れて、装飾畫的轉向である。

此ニ個の造型的並びに装飾的轉向は、事實に於ては、抽象論としての造型と装飾との間隔ほど差異はなく、両者は畫面の理論的構成並びに感覺の象徴主義によって相交錯し、大多数の畫家は、種々なる漸層と變調とを以って、造型及び装飾の両者の中間を行くものが多く、従って両者は截然と區別せられず、唯だ傾向に關する大體の見当を示すに止まるのである。」37

と、セザンヌを「造型の原理」を追求した立体派、構成派の祖と位置付けた。

田ロ省吾は、「造型」、「プラスチック」という言葉を使用しながら、セザンヌを「キュビスム」の祖とする。

「セザンヌはひたすら空間のプラスチックな構成を探求した。崖や林檎や自畫像は物像の造型を表現する一の手段となり、対象の常識的な説明は大して問題にされなかった。此處に繪畫の革命の一端は、はっきりと見られるのだ。此セザンヌの考察は更にキュビスムの人々によって狭められ強調されて居る。」38

伊原宇三郎は、セザンヌと立体派が父子関係にあるとして、

「(…)セザンヌとキュービズムとは同じ血統の上に立っ父子の關係にあるのであるから、セザンヌの藝術を語ることは、同時に、キュービズムの核心を衝くことにもなるのである。」39

細とその立体派論の中で、セザンヌを先ず紹介した。

福沢一郎(ふくざわ.いちろう、1898-1992)は、セザンヌからマテイス(Henri Matisse,1869-1954)への発展を否定してピカソへの展開を強調した。

「セザンヌの理想は、物を表現する事で、視覺的經験の機械的記録ではない。しかし彼と同時代の人達は、勿論、藝術の形に於ては表はされるところの自然の生氣的印象に、興味を持ってゐたに過ぎない。しかしセザンヌの主張も、吾々の知る様に時と共に變異して、フォーヴの誕生と共に、更に新しい造型的實體を築き上げるに役立ってゐる。しかしマチスの線や面のリズミックな相互作用とは違ってピカソはセザンヌの正系を繼承して、マチスのペルシャ藝術風な詭辯的構成に反して、形(フォルム)の分析や本能的な感受性の強調を試みてゐる。」40

黒田重太郎は、スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)と共にセザンヌを反印象者、ひいては立体派の先駆として、以下の様に位置付けた:

「印象派はこれ等の諸家のあとを享け、色彩と感覺との立場に於て、後にフォーヴ.、未来派、サンクロミスト等に依って發展を續ける所の律動の新しい境域を開拓した。併し形と意想との見地に於ては、幾何學的準據の完全な放擲を意味しなければならなかった、これを取り戻したのは先ず印象派中の反印象主義者セザンヌとスーラであり、そしてこの畫家の意圖を極點にまで推し進めやうとした立體派の諸家である。」41

村田良策は、やはりエミール.ベルナール(Emile Bernard, 1868-1941)によって伝えられたセザンヌの有名な公式を引用しながら、

「彼(セザンヌ)の秘法は、一口に言へば面の對應関係、色と色、タッチからタッチへの連續などの相互関係によつて言はばリズミカルな統一を作り出すことにあらう。こ々に彼は自然と自然ならぬ霊性空間(モニユメンタル)に高めたと云へるかも知れない。ベルナールに對して彼は面の重要さを説いている。既に彼の有名な理論一自然は球體、圓錐體、圓筒體として取り扱はれなければならぬに到達したのである。(…)印象主義への明確な休止點であると共にピカソへの橋であり、次には野獣派への移行を示すことに相違なからう。」42

と、指摘した。

セザンヌの「造型」に注目し、先ず立体派、ひいては構成派等の抽象美術の祖とする、批評形式と歴史観は、今日、セザンヌに関する常識的認識の一つとして流通しているが、この認識自体、ある時代の<現在>を起点としたパースぺクテイヴ、ないしは、要請によって、ある時期に形成された歴史的産物の一つに過ぎない。平成15年度『人文』で明らかにしたように、セザンヌを、「写実」の視点から評価する批評形式も同時代に共存していたし、立体派や抽象美術の祖ではなく、マテイス、ピカソを代表する、20世紀に入ってからのもう一つの流れ、即ち、近代具象の祖とする見方も、もう一つの歴史認識として存在する。43従って、次章では、これらの認識が、一体、どのような環境、ないしは、思想背景を以て形成されたか、その発生の場を問い、明らかにしていく。

 

第 II 章「造型」批評の理論的枠組み:抽象芸術論の確立

(1)「造型」批評の起源:フォーマリスム

「造型」批評は、自然対象(モデル、モティーフ)、画家、絵画面の三っの要素ないしは関係性の内、絵画面それ自体の秩序のみに注目する眼差しであったが、これは所謂、外山が30年代に立体派を指して呼んだように、「フォーマリスム」に関する批評形式であった。即ち、線、色彩、形、構図、マティエールの特徴を分析対象に据え、異なった時期に制作された作品と作品との間に形式の自律的変化を見ようとする美術史の認識システムは、日本に於いて、早くから翻訳紹介されてきた。その翻訳状況を管見の限り以下に列挙する。

一クライヴ•ベル(翻訳者不明)「英吉利の後期印象派」

一口デヤー•フライ(翻訳者不明)「仏蘭西の後期印象派」

—ボリス•フォン.アンレブ(翻訳者不明)「露西亜の後期印象派」

以上、『フユーザン』第4号、大正2 (1913)年3月、8-23頁所収。これらは、1912年10月5日一12月31日、ロンドンのグラフトン画廊で開催された「第二回後期印象派展」図録の以下のテクストを翻訳したものであった〇(Second _Post-Impressionist Exhibition,Oct. 5 -Dec.31 1912,Grafton Galleries,London, Ballantyne and Company LTD) 。

また、

—レオン.ヴェルツ(山内義雄訳)「セザンヌ」『現代の美術』第3巻第1号、大正3 (1914)年8 月号、10-18頁(原典:LéonWerth, Cézannepar Léon Werth,Cézanne,Bemheim-JeuneEditeur, Paris, 1914, pp.41-50)

もいち早く翻訳されていた。

更に、第I章第(3)節で指摘したように、森ロ多里は、大正11(1922)年クライヴ.ベルの芸術論を本格的に紹介し参照しながら、独自にセザンヌの抽象性を指摘し、立体派の祖としてのセザンヌ論を展開した〇1927年、最も早く、セザンヌの初期から晚年までの形式発展を研究した、イギリスの批評家、ロジャー•フライ(Roger Eliot Fry, 1866-1934)の著作(Cézanne, a Study if his DevelopmentLondon Hogart Press, 1927 )は以下で抄訳された:

一口ジャー•フライ(山本正雄抄訳)「セザンヌの水彩の手法的変化」『みづ東』第360号、昭和10 (1935)年2 月、102-103頁。

一口ジャー•フライ(山本正雄抄訳)「セザンヌ一力ル夕を弄ぶ人々。水浴」『みづ東』第361号、昭和10 (1935)年3 月、102-103頁。

山本は、フライの「plastic」という用語を「造型」と訳している。また、ヴェルツは、セザンヌの絵画を「純粋絵画(peinture pure)」44と呼んだが、これは、30年代になって外山が近代絵画を特徴付けるために掲げた表現であった。こうして、西洋のフォーマリスムは、先ず翻訳によって移入され、これまで見てきたように、30年代に多くの日本人よって、plastic、plastique、Plastikの訳語として誕生した「造型」という言葉を使って、日本人の間でも、絵画批評の認識システムとして定着していったと見てよいであろう。45

 

(2) 欧米における抽象芸術論の確立一日本との関係から

フライ、ベル、ヴヱルツのフォーマリスムが、本来、再現的要素を残すセザンヌ絵画の自律的側面を分析する批評形式であったのに対して、もはや再現的要素を放棄した抽象芸術を語る言語に展開していったのは、30年代のアルフレッド.H.バー(Alfred H.Barr Jr.)とハーバート.リード(Herbert Read,1893-1968)の抽象芸術論であった。両者は1910年代にヨーロッパ各地で発生展開した抽象美術運動を本格的に整理し、それらを評価する価値基準を初めて提出した、と言えよう。彼等の作業によって、抽象芸術運動は30年代に美術史上、市民権を得たと言っても過言ではない。

リードは、1933年の著作(Art Now – An Introduction to the theory of modern painting and sculpture,Faber and Faber Limited,London, 1933)において46、表現主義、超現実主義と共に抽象芸術を紹介したが、そこで、「純粋形態の理論」(the theory of pure form)、プラトン主義、セザンヌの有名な公式におけるプラトン主義の復活(セザンヌとプラトンの差異を十分に認識し強調しながら、という条件付きであるが)、これらを根拠とする立体主義以降の幾何学形式、機械感覚を抽象芸術の本質として指摘し、またその社会的意義にも言及した。リードの貢献はこれに止まらない〇1934年の著作(Art and Industry the principles of industrial design,Faber and Faber, Limited, London, 1934)では47、抽象美術の価値観をルネサンス以来のg然主義絵画を支えてきた人文主義芸術観と対決させながら、当時確立したモダン•デザインの本質を語る言語として、「形態的価値」(formal value)を提案した点にある。リードの著作に於いて抽象芸術を特権化する批評形式が、バウハウスによって確立されたモダン.デザインの機械生産の幾何学形態を評価する物として作動し、逆にモダン•デザインの機械生産が幾何学抽象美術の存在を保証するといった形で、近代美術とモダン.デザインを同時に評価する価値基準が確立されたのである。

バーは、ニューヨーク近代美術館で組織した展覧会図録(Cubism and abstract art, The

Museum of Modern Art,1936)に於いて、印象派から様々な主義が抽象美術へ向かって進化発展する美術の系統図を提示しながら、印象派以降のモダン•アートの流れを概説し、抽象美術の諸傾向を整理した。この有名な系統図と共に彼の抽象美術論は、いち早く以下で翻訳紹介された;

アルフレッド*H•バー.(寺田竹雄抄訳)「Abstract Art Movement印象派より抽象繪畫へ」『アトリエ』第14巻第6号、昭和12 (1937)年’6月、38-58頁,。

 

(3) 日本における抽象芸術論の展開と確立

① 長谷川三郎(はせがわ•さぶろう、1906-57)

リード、バーの抽象芸術論は、日本人の批評家によって引用•参照され、日本における抽象芸術論の形成に決定的役割を果たした。

リード、バーの仕事に刺激され、30年代の日本で、抽象芸術論の論陣を張ったのは、長谷川三郎、福澤一郎、植村鷹千代(うえむら•たかちよ、1911-)、瀧ロ修造(たきぐち•しゅうぞう、1903-79)らであった。

我が国で、いち早く、抽象絵画の制作を始め、日本における普及にも努めた長谷川三郎は、1936年、リードのArt and Insutryを紹介しながら、独自の抽象絵画論を雑誌『みづえ』第374号、昭和11(1936)年4月号に、「アブストラクト•アート」という論考として発表した。これが、管見の限り、日本に於ける最初期の抽象美術論であったと思われるが、ここで、長谷川はリ一ドに倣って、ギリシャ.ローマ、ルネサンス時代の、再現的な「ヒューマニズムの藝術」に対して、凡ての芸術に内在する「純粹形式的要素及び直覺的要素」を「ァブストラクト」(抽象)と呼んだ。リードの認識と同様に、「アブストラクト」(抽象)は、日常使用する機械、工業製品のデザインに表明されるのみならず、それを人間の本質的な表現欲求として追求する事で、抽象芸術という新しい領域が開拓されてきた事を指摘した。

「(…)我々は機械工業に於けるァブストラクト藝術の意義を眞實に正しく把握する事が必要である。繪畫ゃ彫刻に於ける近代的諸運動は多數のアブストラクト藝術の藝術家を生んだ。その或る人々は既に彼等の努力を機械工業作品の上に實施する方へ向つてゐるが、尚多數は繪畫の制作に従つてゐる(と云ふ事はカンヴァスの上にアブストラクト.デザインを描いてゐると云ふ事である)そして、それらの作品はヒューマニズム的藝術の作者達の作品と對抗して市場に現れてゐる。現在、事實上、人間のァブストラクト藝術に對する欲求は機械工業製品(即ち日用品)に於てのみ充し得ない以上、か様な種類の藝術(即ちァブストラクト繪畫)は重要な機能を果すものである、それは云はばすベての藝術の形式的本質を汚さずに保つ事が出来るからである。個人的の感じであるかも知れぬが、私は今後相當の期間、ァブストラクト繪畫の一派が生れ存在し續けるであらうと考へる。之は繪畫藝術に於ける一つの新らしい部門であり、畢竟、一つの新らしい造型美術である。」48

さらに、カンデインスキ一(Wassily Kandinsky, 1866-1944)、オザンファン(AmédéeOzenfant,1886-1966)、ル•コルピュジェ(Le Corbusier,1887-1965)、モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)、ドウ一スブルフ(The van Doesburg,1883-1931)らの展開した抽象美術は、その起源をプラトン主義の復活とセザンヌ、立体派の切り開いた新しい造型に求められるが、絵画という限定された領域を越えて広く建築、デザイン等の造型活動全般に新しい解放をもたらしたとした。

「セザンヌ一キュービズムと引かれた線は、ルネッサンス以来の歐州繪畫が陥つてゐた繪畫以外に發展し得ない繪畫の作者としての畫家を開放する結果を生んだとも云へるが、それは繪畫に對する根本的の凝視と懐疑に導かれたと云はねばならぬ。繪畫とは何であるかとの反問は當然繪畫をも含んだ一般造型美術或は廣く形體藝術の全視野と、その中に於ける「彩られた平面」としての繪畫の再發見に迄遡らしめる。」49

「(…)セザンヌ一キュービズム一ピューリズム/ネオ.プラスシテイズムに於る繪畫或は造型の本質探求はこ々に再び、形體藝術豫當者としての造型美術家の實際生活の分野に於ける任務と、純粹形式としての繪畫の正しい範圍と純粹性を守る事から来る文化的部門に於ける高さとの明らかな再認識、再評憤に到達したのであつた。」50

長谷川は、今度はバーを典拠としながら、1937年、『アブストラクトアート』という著作を発表し、セザンヌ、スーラを出発点に据えながら、モンドリアン、アルプ(Jean Arp,1887-1966)、カルダ一(Alexender Calder, 1898-1976)、ドローネー(Robert Delauney,1885-1941)、ドウ—スブルフ、ガボ(Naum Gabo,1890-1977)、ジャコメッテイ(Alberto Giacometti,1901-1966)、カンデインスキ一、クプカ(Francois Kupca,1871-1957)、マレーヴイチ(KasimirMalevich,1878-1935)、モホリ.ナギ(Laszlò Moholy-Nagy,1895-1946)、ムーア(HenryMoore,1898-1986)、ニコルソン(Ben Nicholson,1894-1932)、オザンファン、ぺヴスナー(Antoine Pevsner, 1886-1962)、ロドチェンコ(Aleksandr Rodchenko, 1891-1956)、夕トリン(Vladimir Tatlin,1885-1953)、マン•レイ(Man Ray,1890-1976)、グロピウス(Walter Gropius, 1883-1969)、コルピュジェ、アウト(Jacobus Pieter Oud,1890-1963)ら、抽象美術作家達の紹介を行った。ここで、立体派や抽象美術の祖としてセザンヌを紹介するにあたって、十九世紀以降の科学主義とセザンヌの達成を関係付ける、独自のセザンヌ論を展開した。

「静な南佛の小市、ェクス•アン.プロヴァンスへ、電気鐡道が侵入して來た。—この事實と自然に導かれて一言葉を換へて云へば感覚にたよつてクラシクに歸らねばならぬ。と説いて、自然を凝視しつづけたセザンヌが、M球體•圓錐體•圓筒體として、自然を取り扱わねばならぬ »と云ふ結論に達した事との間には、之等の事實の後に、 »科學の時代••が傲然と構へてゐると云ふ事に於て、別々にして考へる事の出来ぬ緊密な関係がある事を注視せねばならぬ。(…)セザンヌの背後には、西歐の近代的な »科學精神11が燃えてゐる、といふ點にか々つてゐる。(…)セザンヌの態度こそ、モネが技術的方面で示した科學的な態度を一層、藝術としての本質的なものに迄、徹底せしめたものであつて、その點に於て、通俗的見解もそれを認めてゐる所のスーラ一と共に、彼は科學時代の藝術家の最も偉大な先驅者としてこそ認められるべきなのである。(…)セザンヌの »藝術の科學性”は、立體派の畫家達によつて立證され、受け繼がれ、一歩も進められた。」51「セザンヌの藝術の科學性」とは、

「セザンヌと共に、僕は幾度でも繰り返すが、 »自然は球體、圓錐體、圓筒として取り扱はれねばならぬ。その諸てが透視法に従ひ物體と面(プラン)の前後左右が中真のー點に集註されねばならぬ。廣さを示す水平の併行線は、一種の自然の區劃で、我々の目前に全智全能永遠の神が展開した素晴らしい光況(スペクタクル)と云つても差支えはない。此水平線に交叉する鉛垂線は深みを加へる。自然は擴りよりも深みに於て見らるべきもので、此點から赤や黄色で表される光の波動の中に空氣を感ぜしめる為めに青の量を充分入れる必要がある。”52こ々には、幾何學があり、物理學がある。科學と藝術の結婚を拒否する文人気質を捨て得ない者は、當然、セザンヌを愛する権利も尊敬する権利も捨てねはならぬ。」53

であった。

さらに、「科学と芸術の結婚」という観点から、最後に、セザンヌを抽象美術の祖として紹介した。

「さて、我々は、愈々抽象と云ふ語に到達した。新らしい抽象藝術の出發點の一つは確にセザンヌの言葉の中にあるのである。”モデルを熟視せよ、そして正確によく感じよ »。そして、寫眞機の如く描く代りに、球體と、圓錐體と、圓筒とを發見したのである。彼が、人間性の藝術の藝術家であるとすれば、それはこの點にこそあると云はねば誤りである。”人間は幾何学を持つ動物である。」54

こうしたセザンヌ解釈を起点として、長谷川は、さらに、抽象美術を以下のように定義した。「激しい非難と、少數乍ら力強い支持とに包まれて出發したキューピム(ママ)に續いて、その發展、修正、等の運動が次々と與つた。シュプレマテイズム、コンストラクテイヴイズム、ステイル、ピューリズム等はその主なるものであろう。之らの運動は、立體派の發展乃至修正として抽象的形體(線、面、立體)及純粹な色彩の價値を一層積極的に主張したのであるが、同時に、この時代から、もともと繪畫に出發した新造型運動が著しくその戦線を擴大した事に注視せねばならぬ。」55

或いは、

「(…)シュープレマテイズム、デ.ステイル、ネオ•ブラテイシズムは純粹な幾何學構成そのものを形成する事を、”絵画する »(或は »造型する”)行動の正しい近代的なものである、と勇敢に主張し、實行し、自然形體を畫面から追拂つてしまつた。之はセザンヌ、スーラ一、キュービズムの最も正當な發展である。」56

とした。

従って、抽象美術は長谷川によれば、「抽象的形體(線、面、立體)及純梓な色彩の價値」を追求する美術を意味していた(尚、長谷川は、「造型」を純粋な幾何学構成を意味する言葉として定義している)。そして長谷川にとって、セザンヌと同様、抽象美術も、科学、機械時代を基盤として誕生した新しい美術であった。

「セザンヌによつて、最も果敢に徹底的に斷行された繪畫の本質探求の努力が、つひに實を結んで、ここに建築、彫刻、繪畫、すべてに亘る、造型藝術の、本質に關する最も強烈な關心が、科學的世界観、及び機械産業の時代に最も適した、必然性を具えた新らしい造型概念の樹立を試みる事となつた。」57

或いは抽象美術の環境を以下のように解釈した。

「一層深い人間性を求める事以外に藝術意志の方向はない。美意識の、造型意識の非常な純化は、かかる點に我々の時代に於る強固な必然性を有するのである。

この純化は、新しい造型を志す作家達と、機械のテクニックを充分に發揮しつつ、そこに、純粹形式美に對する、真に人間的な憧れを盛る事に努力した »技師達 »との共感によつて具體化された。(…)

完成當時、その »醜い »鐵骨の露出の故に、多数のアカデミックな美學者、批評家、文學者、藝術愛好家等から猛烈な非難を蒙つた。エッフェル塔の設計者、エッフヱルやフランスの野の各所に默々として最も簡潔な構築により橋梁を架けてゐたマイヤール等の才能が稱揚される事になつた。倉庫、工場、或は機械そのもの、汽船、自動車、飛行機が藝術家ならぬ技師によつて經済的及び構造的必要及び必然を眼目として設計される内に、しばしば夫々の設計者_身無意識の中に、或は謂はば半意識的に到達した、調和、安定、抽象美等が新しい造型意識に立つ建築家達によつて認識され學ばれた。

機械が發明及び設計される基礎は、數學、幾何學、物理學である。機械の性質を充分に發揮する事によつて機械が發明される實際的基礎である經済的理由を満足せしめ得る様にして制作される機械製品の設計の基礎も同じ處に置かれねばならぬ。

我々の日常生活は必然的の經済的理由から益々機械及び機械製品によつて取り圍まれて行く。人間は機械以上に出る爲に機械及び機械製品を同化せしめねばならぬ。

幾何學、或は物理學的造型意識の純化及び發展を、實踐を通じて高め進める事は、この時代に於る藝術家の一つの社會的任務である答である。この様な美術家の積極的な活動により、機械及び機械製品、及び機械製品を部分品とするすべての物品及び構造物は、その本質的の性質を失ふ事なく、より美しくされ我々の生活は、造型的により高くされるのである。幾何學及物理學的な抽象藝術の »現實性 »はここにあるのである。」58

と、抽象芸術の社会的基盤及びそれが露わにする現実性が機械時代という環境に求められることを強調した。

 

② 瀧ロ修造

瀧ロ修造は、1938年発刊の『近代藝術』において、

「近代藝術といふ言葉の含むべきものについても、それぞれ異論があるであらう。本書では、私はセザンヌ以後、立體派を通つて流れて来た前世紀の自然主義的寫實主義への反動の主潮として解釋した。この過程には、なほ種々な寫實主義的な復活、それに近似する諸傾向の派生してあることも知つている。しかし私はそれらを省略して、近代藝術の一種の歸着點であり、今日の藝術の兩極點とも見做される抽象的藝術と超現実主義とに重點を置き、多少とも對象的に提示しようとこ々ろみた〇」59

と近代絵画の流れを抽象美術と超現実主義の二つの流れに整理して概説した。瀧ロは、これまで紹介してきたように、当時定説となったと判断してよいくセザンヌの公式から、セザンヌを立体派や抽象芸術の祖とする認識>に留保を示しながらではあるが、基本的には、この認識を踏襲して以下のように指摘した。

「いつも「輪廓は私を逃げてゆく」と口癖にしてゐたやうに、彼はアングル的な意味に於ける素描の大家ではなかつた。しかし今日では殆んど造型上の常識となつてしまつた形態的なデッサンの意味、即ち内的な面によつて、彼は輪廓に到達したのであつた。立體派の若い畫家たちが、セザンヌを繼承したのもこの點にあつた。また彼自身、あらゆる自然は、圓錐形と圓筒形と球體とに還元されるとまで明白に主張してゐる。この問題は後のキュビスムの分析的な傾向が發生し、さらに抽象主義藝術が發展する直接の機縁の一つになつてゐることは確かな事實である。(…)私はセザンヌから抽象主義へとつながつてゐる一つの線を不可避なものとして理解するのであるが、抽象主義の形態概念を通してしか彼の意義を理解しない立場を疑問に思ふのである。」60

また別の箇所では、抽象芸術には、幾何学抽象と表現主義抽象の二つの流れがあるとして、ス一ラと共にセザンヌを一方の側の起源と規定している。

「抽象藝術にはおよそ二つの主要な流れがあるとされる。最初の、そしてもつとも重要な流れは、セザンヌとスウラの理論から、立體派を通つて、世界大戦中、露西亜や和蘭に發展した幾何學的な、構成主義的な運動によつて代表されるものである。第二の流れは、ゴ才ガンの藝術と理論から發して、マチッスのフォーヴイズムから、大戰前のカンデインスキイの抽象的表現主義へと流れて來たものであって、シュルレアリスムの一部の作家と關聨して、新たな勢力を表はして來た。」61

そして、「抽象藝術の意義」として、機関誌『抽象創造』(abstraction-création,non-figuratif)の創刊号(1932)年の序文から以下のように抄訳.引用している。

「抽象一創造一非象形的な藝術。

吾々の集團とその活動を示すために右の言葉を選んだ理由は、それがもっとも明確であって異論の余地のないものだからである。

非象形とは、説明的•挿話的•文學的‘_然主義的等の要素を一切排除した、純粹造型の開發をいふのである。

抽象とは、この中の或る作家が、_然の諸形態からの漸進的抽象によって、非象形の觀念に到達してゐるからである。

創造とは、他の作家にあっては、純粋に幾何學的な秩序の觀念によるか、または圓、面、線といったやうな普通に抽象的と呼ばれる諸要素だけの使用によって、直接に非象形に到達してゐるからである。」62

さらに、リード、ヒューム(Thomas Ernest Hulme,1883-1917)、ヴオリンガー(WilhelmWorringer,1881-1965)、ゼンパー(Gottfried Semper,1803-1879)の抽象発生論に関する諸説を紹介しながら、その中でも、オザンファン、ジヤヌレの『近代絵画』(1924年)の以下の部分を翻訳•紹介し、

「鐵は社會を變革した。それは機械主義(マシニスム)を許容した。機械主義は、一世紀のあひだに文明の態度を、従って吾々の慾求をも變革してしまった。」「機械主義の發展によって、幾何學はいたる所に存在してゐる。吾々の感覺は、今や幾何學的なスペクタクルに慣らされた。吾々の精神はいたるところにこの幾何學を見出すことで滿足する。しかも繪畫の非幾何學的な不定形性に、殊に印象派のふやけた軟調に對して反抗するやうになった。人間は今や幾何學的な精神によって動く、幾何學的な動物である。かくしてその藝術の慾求も變形されたのである。」63

と、「機械主義」の発展による「幾何学」を抽象芸術の起源とした。

別の所でも、幾何学抽象が機械時代の新しい近代生活を環境として誕生したことを強調した。「また機械は現代の「非象形」的要素の純梓な源泉の一っであり、その抽象的な造型感(物質と形態)は吾々の生活の美意識のなかに多く轉移されてゐるとともに、機械の啓示によって、時間と空間の認識形式にも著しい變化を来してゐる。こ々にも抽象藝術が主張される理由がある。ただ機械や近代的生産物などの美が、効用性にもとづく機能美であるのに對して、抽象藝術はかならずしもそれらから歸納されたものではない。純粋な機械美はもっとも過ぎやすいもの々一っであって、五年と經たない飛行機の形態の著しい推移をみても解ることである。むしろ私は近代に於ける機械(メカニスム)の持っ自己充足性への傾向が、藝術の有機性に對して或る種の牽引力として作用してゐるのではないかと考へるものである。(…)これは勿論抽象主義だけに限られない問題であるが、一部の抽象藝術に見られる藝術至上主義的な外観は、形而上學的なイデアルに結びっく以上に、かうした機械の心理的影響の方が強いのではなからうか。この意味でも機械が近代の思想體系に與へる影響は決して無視し得ないであらう。」64

こうして、バーやリードの諸説を要約したにすぎない福澤や植村65とは異なって、長谷川と同様、瀧ロは、抽象芸術誕生の環境、そして、その現代性ないしは、現代に於ける意義を説いた。

 

(4)「造型」批評の理論的枠組みとしての抽象芸術論

以上見てきた様に、セザンヌの絵画面の自律的秩序に注目する「造型」批評は、明治末から紹介されてきたフォーマリスム批評の延長線上に生まれてきただけではない。それはまた、欧米で展開した、純粋形態や色彩による「造型」を目指した抽象美術の芸術論が確立された、という環境の中で形成されていった、と見てよい。また、バーに典型的なように、フォーマリスムによる発展史観が確立する中で、セザンヌは、純粋形態の発見者として、抽象絵画の誕生にあたって重要な出発点となったとして高く評価された。セザンヌから立体派を通って抽象芸術へと至る発展史観が確立されたのである。

ところで、リード、長谷川、瀧ロが気づき指摘した様に、抽象芸術論は、決して絵画という限定された芸術領域に関する議論として発生し成立したわけではない。それは、絵画、彫刻、建築、工業デザイン等の造型を広範に含み込む、より大きな思想的枠組みを背後に備えていた。それは、この時代に盛んに議論された「機械美学」である。「機械美学」に関しては、これまでニ、三の考察がなされているが66、抽象芸術論の思想環境として控えていたという観点からの指摘は、管見の限り存在しない。従って、以下で、抽象芸術論と「機械美学」の関係を明らかにしていく。

 

第 III 章抽象芸術論の思想環境:機械美学

(1 ) 村山知義(むらやま•ともよし、1901-77)

20年代から30年代にかけて、機械美学が盛行したが、その代表的論客は、村山知義、板垣鷹穂(いたがき•たかほ、1894-1966)、中井正一(なかい•まさかず、1900-52)であった。以下で、彼等の言説を抽象芸術論との関連から復元してみる。

村山知義は、ロシア構成主義のに影響を受けて制作するとともに構成主義等に関する前衛美術論を発表したが、その議論の核となったのは、「機械美学」であった。1926年の『構成派研究』に於いて、「抽象派」一般に就いて、

「要するに立體派の踏み出した道を更に押し進めて始めて繪畫から全然「對象的なもの」を追ひ出し、「純粹な形」と「純梓な色」とを扱ひ始めた一派である。(…)」67

としながら、未来派、レジェ(Fernand Léger,1881-1955)、シュヴィツ夕一ス( Kurt Schwitters,1887-1948)の機械との関係と区別しながら、構成派と機械の関係を以下の様に規定した。

「構成派の大きな特徴の一つはその機械に對する熱愛である。(…)コムミュニストに取つては、機械こそは生産過剰の理想社會を来らせるための救ひの神である。彼等は當然此の勤勉無比な確實な驚くべきエネルギーを有するもの々姿を熱愛する。

彼等は順序、明瞭、組織、正確、活動を愛するから、この點また當然機械を愛せずにはゐられない。

勞働者出身の形成藝術家達は過去の轉統を引きずつてゐない。繊細微妙にして低徊的な趣味を持つてゐない。従つて彼等は勇敢端的な機械の美を愛する。

構成派の機械讃美はかういふやうな諸原因から發してゐる。従つてそれはブルジヨア藝術の場合のやうに一時の氣まぐれや勝手な偶然ではない。

構成派に於ては機械は單に刺激剤、亢奮剤として愛玩されはしなかつた。構成派は當然産業主義と結び附いて實際的効用のある機械の構成へと志した。」68

つまり、未来派の様な、機械をロマン主義的感情から再現する態度とは明らかに異なり、またレジェのような、単なる幾何学形態という外見上の類似ではなく、構成派は、機械本来の特性、

即ち「順序、明瞭、組織、正確、活動」をその構成に持ち込む点で機械美によって支えられている

とする。69,

 

(2) 板垣鷹穂70

大正から昭和にかけて美術史家、評論家として活躍した板垣鷹穂は、1929年「機械と藝術の交流」を現代的現象と見なし、

「マーツァも、その「現代歐洲の藝術」のうちに機械美の成立を未来派から構成派に導きながら、資本主義の膨張との間に必然的な關係を求めてゐる。

然し、かかる社會思想の觀點を離れるとしても、十八世紀末葉以来の消極的な歴史主義に對する反動として、積極的に合理主義を標榜しながら、機械的形態の合理性に敬意を捧げる芸術論は生まれて来る。「生活」と云ふことに一つの獨立した文化的價値を認め、個人意識に對する社會意識を強調する現代としては、簡易、衛生、秩序、安價、堅實、大量••.と云ふやうな新しい規範が、藝術そのものの價値と理想とを決定する。ル•コルピュジェは汽船と自動車と飛行機とに現はれてゐる形態上の合理性を指摘して、生活に適せぬ傳統的様式の中に安息する建築家の覺醒を促した。」71

とし、両者の交流を、芸術が、「機械的形態の合理性に敬意を捧げる」事、「簡易、衛生、秩序、安價、堅實、大量…と云ふやうな新しい規範」に価値と理想を求めている点にあるとした。

従って、板垣にとって「機械美」を表す典型は、絵画や彫刻といった旧来の芸術ではなく、機械工業製品、今日でいうインダストリアル.デザインの製品であった;

「様々な工場の内外、發電所、變壓所、高壓線支柱、信號塔、ラデイオ柱、起重機、橋梁、停車場、格納庫、倉庫、軍艦、汽船、電車、汽車、自動車、飛行機一此處に新しい美の寶庫がある。中でも「現代」と云ふ一つの時代に一種々の意味から一最も性格的な代表者は軍艦である。」72或いは別の所では、当時、新しく台頭してきた「機械美」を「自然美」や「芸術美」との関連で以下のように位置付けた。

「藝術の歴史も亦、機械の機能と形態とに率ゐられて、新しい時代に進みつつある。

社会思想の目標と、日常生活の環境と、視的世界の創造技法と一その何れもが機械である。そこで機械は、美的價値の内容を規定し、藝術の表現形態を指導する。

新しい時代は新しい價値を生産する。自然美との二元的對立は、機械美の誕生によつて三元化された。新興の機械美は、自然美を征服しっつ藝術美を指導しはじめた。」73

既に紹介した、リードの「形態的価値」という新しい価値概念は、旧来の純粋美術優先のヒェラルキーを造り上げた人文主義芸術論から脱却して、芸術とデザイン、建築を同等にともに評価する基準として措定されたが、板垣の「機械美」では、工芸美術、商業美術、建築、映画が重視され、絵画は、機械化を待つ遅れた領域として位置付けられ、旧来の芸術論との間でヒェラルキーの逆転が生じた。

「恰も印刷機の進歩によつて、寫本時代には特殊階級に獨占されてゐた知識が一般社會人の共有物となったやうに、繪畫も亦一機械技術の進歩と表現形式の變遷とを前提する限り一社會的普及が可能である。特殊階級の住宅を装飾する室内畫に對して公共建築の壁畫が求められつつあると共に、精巧なる一云はば一「版畫化」の問題も當然生じて来べきである。」74

或いは「繪畫の貧困」と題した象徴的な評論では、

「造形藝術上の現代は、「建築とェ藝と映畫との時代」だ一と、云はれる場合が折々ある。(…)しかし繪畫は?—

社會的技術としての機械文明は、一枚の油繪に手工業的な名人氣質の技法を要求する代りに、大量生産を可能にする機械工業的な製版と印刷との技法を進歩させる。金属とグラスとの冷めたく滑らかなマテリエルの味ひは、繪畫を盛り上げたり複雑な色調を出したりするのに適當な油繪らしい形式よりは、より的確に版畫らしい形式に表現される。」75

と手工芸的絵画の未来を否定して、絵画の機械化、即ち、版画や今日でいう、グラフィック•デザインの可能性を提案している。76

板垣は従って近代絵画に就いて殆ど語っていないが、抽象芸術誕生の環境として機械美が控えていたのではないか、という本稿の問いに対して、以下のような発言を行っている。

「鐵の構成のモニュメントの威壓的な力強さが「機械のロマンテイズム」を喚起したと同じく、鐵の構成の純造形的な特質から、抽象的な一種の形式主義が生れたことも認めなければならぬ。現代の繪畫やその投影としての彫刻に散見する抽象的な表現形式の、何處までがか々る環境の所産であるかは解らないが、少なくとも、此の環境から刺激を受けたらうと云ふ推測は充分成立する。.」77

 

(3)中井正一

最後に、20-30年代、伝統的美学にいち早く見切りをつけ、機械美学の可能性を模索した美学者、中井正一に言及しておこう。中井は、古代から当時までの美学の歩みを3つの段階によって整理した。最初に、ギリシャ以来の「模倣」概念、次に、19世紀のロマン主義以来、「天才」、「創造」の概念が登場したとし、このロマン主義芸術観の危険性を指摘して、現代の美学として、第三の美学、「規律と関係と統一を根底とするところの機械のパトス、機械のカラクテール、機械のプラクシス」即ち「機械美」を提出した。78

そして、「機械美」の概念を提出するにあたって中井が前提とした芸術は、本稿が仮定しているように、抽象芸術であった。例えば、「機械美」の観点からデ•スティル、モホリ•ナギに至る抽象美術の流れを以下のように説明した。

「この藝術的態度はすでに先の存在感とは對遮的に體系的純粹性の世界感の群に属するものなのである。數學的科學的形相として、それ等のものが構成される。それ等のものはロージェ•アラアルが指摘する様に「一定の關係に於て、單純な、抽象的な諸形式を與へる」のであり、「數學的混沌の中に秩序を立てる事」である。かかる傾向はモンドリアン、デスブルダ、モホリ•ナジ達の無對象性の藝術に至つて窮極にまで立到る。そこでは「吾々の中にある宇宙的なるもの」の直接的表現である。しかもその宇宙的なるものとは絶えず存在し、持續するところのものである。一般にシュプレマチスムスと云はるるところのものは、この純粹化絶對化の窮極性にまで立到つてゐる處のものを指すのである。

これ等のものは總じてすで丨こ戰後の重工業主義に取巻かれたる知識階級が、その桎梏を通して、その力の範圍に於て、可能的存在領域に於てその美の様式を發見せんとした努力である。ー應そこに現實存在よりの抽象的遊離が見られるのは當然である。」79

更に続けてピュリスムや構成主義、グロピウスと機械美学の関係を論じて、

「かかる知識階級の世界觀的實踐とは別で、しかも、かかるピューリズムに非常に深い關聯をもつ世界観がある。既それは技術科學者のもつ實踐的態度である。ここでは先の單なる無方向的秩序の感覺として重工業的生産の世界を把へるのではなくして、合目的的な力として把握するの

である。構成主義と呼ばるるものが既それである。ギンスブルダの規定の様に、獨立な組織體としての機械の基本的特性の一っは、その極度に精密な、正確な、組織性であり、又創造的觀念の形成に於て我々の感覺を導いて行くものなのである。ピェール.アンプ、ケラーマン等の技術者の報告文學の中にもかかる感覺が漲つている。コルピュジェ、ジャンネレ、グロピウス等のもつ建築より出發せる感覺にもかかる合目的秩序よりの宇宙的秩序の關聨がある。」80

戦後になるともっと明確に「機械美」と抽象芸術の関係を以下のように説明した。

「建築は住む機械である。そして機械の美しさは、その中にある数学的秩序が、見ゆる音楽として、その均整と秩序の感覚の中に伝えてくれるのである。それは宇宙の秩序にまで関連をもっところの「精神の数学的作品」なのである。飛行機の美しさは誰も飾っているのではない。その機能の函数的数学的秩序の美なのである。この考え方はシュプレマチズム、無対象の芸術にまでその涯をもっている。レジェ、グルーメル、ロージェ.アラール、モンドリアン、デスブルグ、モホリ.ナジの系統のものがそれである。」811

従って、中井に於いても抽象芸術の成立を支える機械美は、機械のロマンチシズムでも、機械の外観形態でもなく、機械に内在する諸価値(即ち、「精密な、正確な、組織性」、「数学的秩序」)をモデルとした構成のあり方であった。

以上迪ってきた様に、機械美学は、決して、芸術の世界にとどまる価値観ではなく、板垣の議論に代表された様に、生活全体を規定する価値として30年代を広く浸透した。即ち、モダン-デザインの浸透によるモダン.ライフ、すなわちモダニズムの浸透と不可分であり、芸術の領域を越えた広い範囲をカヴァ一する美学であった。それは、抽象芸術の他の傾向、即ちカンディンスキーを代表とする表現主義的抽象芸術を説明してはいない。が、ピュリスム、デ•スティル、構成主義、バウハウスといった大多数の抽象芸術の存在を支える、芸術の思想的枠組みとして、20-30年代に確か存在していたのである。

おわりに

セザンヌの「造型」批評は、本稿で明らかにしてきたように、抽象芸術論の確立ひいてはそれを支える機械美学の盛行という思想環境の中で成立した。しかし、このモダニズムを背景とするセザンヌ受容は、やがて、30-40年代の、もう一つの思想水脈であった日本主義によって終息していく。「写実」、「造型」の次に来る第三のものとして、日本主義のセザンヌ受容が登場するが、この問題については稿を改めたい。

  1. 拙稿「「写実」のセザンヌ受容とその思想環境」『人文』第52号、平成15 (2003)年3月、43-72頁。
  2. 高村光太郎、「素材と造型」昭和15 (1940)年6月、『造型美論』筑摩書房、昭和17 (1942)年、5-6頁。
  3. 同上、13頁。
  4. 同上、17-18頁。
  5. 三雲祥之助、「近代繪畫に於けるフオルムとスタイル」、『みづ東』第494号、昭和21(1946)年10月、41頁。
  6. 外山卯三郎の著作は、管見の限り、以下の通りである。

    ——- 20世紀繪画大觀』金星堂、昭和5 (1930)年。

    ——— 『造型美術概論』建設社、昭和5 (1930)年。

    ——– – 『藝術學研究特輯第一巻』(編著)金星堂、昭和6 (1931)年。

    ——— 『モチーフの研究』金星堂、昭和7 (1932)年。

    ——— 『純粹繪畫論』第三書院印刷部、昭和7 (1932)年。

    ——— 『最新フランス繪畫研究』金星堂、昭和7 (1932)年。

    ——— 『日本洋畫の新世紀』四明社、昭和8 (1933)年。

    ——- 『繪画の精神研究』成光館書店、昭和8 (1933)年。

    ——— 『現代哲學全集第20巻美術史論』建設社、昭和12 (1937)年。

    ———- 『藝術學研究第1巻』(編著)第一書房、昭和12 (1937)年。

    『日本洋画史』(第1—3)、日貿出版社、昭和54 (1978) -54 (79)年。

  7. 外山卯三郎『純粹繪畫論』第三書院、昭和7 (1932)年、152-153頁。
  8. 外山卯三郎『造型美術概論』建設社、昭和5 (1930)年、44頁。
  9. 外山卯三郎『前掲書』第三書院、昭和7 (1932)年、156-157頁。
  10. 成田重郎「セザンヌ研究緒論(2)」『アトリエ』第8巻第7号、昭和6 (1931)年7月、14頁0
  11. 矢代幸雄の活動に関しては、以下を参照のこと。加藤哲弘「矢代幸雄と近代日本の文化政策」『シリーズ近代日本の知第四卷芸術/葛藤の現場近代日本芸術思想のコンテクスト』(岩城見一編)、晃洋書房、2002年、69-84頁。
  12. 矢代幸雄「西洋近代繪畫展覧会に就いて」『美術研究』(西洋近代繪畫展覧會圖緑)第九号特輯、昭和7 (1932)年9月、3-7頁。
  13. 矢代幸雄、同上、3-8頁。
  14. 矢代幸雄、同上、3-9頁。
  15. 1922年1月から1947年1月までの美術雑誌に発表された、セザンヌに関する批評言語を、以下でデ一夕.ベース化しているので、これを參照のこと。拙著『1930-40年代の日本におけるセザンヌの受容Cézannisme in Japan 1922.1-1947*1』(平成10-13年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(C) (2)研究成果報告書)(研究代表者:永井隆則)、1-94頁。
  16. 田ロ省吾「モチーフについて」『みづ東』第337号、昭和8 (1933)年3月、121頁。
  17. 難波田龍起「畫室の思索」『現代美術』第3巻第9号、1936年9月、72頁。
  18. 伊原宇三郎『近代美術思潮講座第三巻CUBISMEキュービズム』アトリエ社昭和12(1937)年、51頁。
  19. 黒田重太郎の批評の特質に関しては以下を参照のこと。拙稿「1910-20年代京都の美術批評と芸術論」『シリーズ近代日本の知第四卷芸術/葛藤の現場近代日本芸術思想のコンテクスト』(岩城見一編)、晃洋書房、2002年、115-118頁。また黒田の履歴、著作目録に関しては、以下を参照のこと。戸村知子「日本近代の洋画家黒田重太郎」『融合文化研究』第2号、2003年5 月、12-25頁。
  20. 黒田重太郎『構圖の研究附近代繪畫にあらはれたる美の要素』中央美術社、大正14 (1925)年、6頁。
  21. 黒田重太郎、同上、15-16頁。
  22. 黒田重太郎、同上、9頁。
  23. 黒田重太郎、同上、32-33頁。
  24. 黒田重太郎「構圖概説」『芸苑』第貳輯、昭和13 (1938)年、3頁。
  25. 黒田重太郎、同上、5頁。
  26. 黒田重太郎、同上、6頁。
  27. 伊藤廉「繪畫の限界について」『みづ東』第49号、昭和22 (1947)年1月、62頁。
  28. 柳亮「セザンヌの構圖」『みづ東』第497号、昭和22 (1947)年1月(昭和21(1946)年脱稿)、33頁。
  29. 柳亮、同上、37頁。
  30. アーサー.ジェロームエッディ(久米正雄訳)『立體派と後期印象派』金星堂、大正5(1916)年、63-64頁。ハネカー(森ロ多里訳)「パブロ•ピカソ」『現代の洋画』第27号、大正3 (1914)年6月号、9-15頁も早い例であろう。
  31. 森ロ多里『近代美術十二講』東京堂、大正11(1922)年、157-158頁。
  32. 成田重郎「セザンヌ研究緒論(2)」『アトリエ』第8巻第7号、昭和6 (1931)年7月、12-14 頁。
  33. 外山卯三郎「現代の風景畫」『みづ東』第305号、昭和5 (1930)年7月、388頁。
  34. 外山卯三郎『前掲書』第三書院、昭和7 (1932)年、100頁。
  35. 外山卯三郎「西歐現代繪畫に於ける構圖の問題」『芸苑』第貳輯、昭和13 (1938)年6月、61頁。
  36. 外山卯三郎『日本洋画の新世紀』四明社、昭和8 (1933)年、70-71頁。
  37. 矢代幸雄「前掲論文」、321頁。
  38. 田ロ省吾「前掲論文」、121頁。
  39. 伊原宇三郎『近代美術思潮講座第3巻CUBISMEキュービズム』アトリエ社、昭和12(1937)年、54頁。
  40. 福澤一郎「造型性に就て」『美之國』第13巻第2号、昭和12 (1937)年2月、72頁。
  41. 黒田重太郎「前掲論文」、16頁。
  42. 村田良策「セザンヌ私觀」『アトリエ』第16卷第11号、昭和14 (1939)年10月、13頁。
  43. これについては、以下を参照のこと。拙稿「セザンヌと後世代」『モダン•アート論再考一制作の論理から』思文閣出版、2004年、126-144頁/「1930年代日本のセザンヌ受容一「人格」から「造型」へ」『美学芸術学の今日的課題「日本における美学•芸術学の歩みと課題」+「<病>の感性論」』(美学会編)、平成11(1999)年2月、17-26頁。
  44. Léon Werth, Cézanne par Léon Werth, Cézanne,Bernheim-Jeune Editeur, Paris,1914,p.46
  45. 西洋における「plastique」概念の変遷に関しては、以下を参照のこと。Dominique Chateau,Artsplastiques Archéologie d’une notion,Edition Jacqueline Chambon, Nimes,1999.
  46. この著作は戦後邦訳された。ハーバートリード(植村鷹千代訳)『今日の芸術』新潮社版、昭和28 (1953)年。
  47. この著作は戦後邦訳された。ハーバート.リード(勝見勝/前田泰次訳)『インダストリアルデザイン』みすず書房、昭和32 (1957)年。
  48. 長谷川三郎、「アブストラクトアート」『みづえ』第374号•昭和11(1936)年4月号、269-270頁。
  49. 長谷川三郎、同上、271頁。
  50. 長谷川三郎、同上、275-276頁。
  51. 長谷川三郎『近代美術思潮講座.第六卷アブストラクトアート』アトリエ社、昭和12 (1937)年、12-16 頁。
  52. これまで紹介したように、このセザンヌの言葉は彼の芸術の命題を要約した公式として多くの日本人によって引用されてきたが、原文は、以下で発言された;LettreàEmileBernard (Aix-en-Provence,15 avril 1904), Cézanne Correspondance,Nouvelle edition complète et définitive, recuillie, annotée et préfacée par John Rewald, Bernard Grasset, Paris,1978, p.300;(…) traitez la nature par le cylindre, la sphère,le cône,le tout mis en perspective, soit que chaque côté d’un objet, d’un plan, se dirige vers un point central. Les lignes parallèles à l’horizon donnent l’étendue, soit une section de la nature ou, si vous aimez mieux, du spectacle que le Pater Omnipotens Aeterne Deus étale devant nos yeux. Les lignes perpendiculaires à cet horizon donnent la profondeur. Or, la nature, pour nous hommes, est plus en profondeur qu’en surface, d’où la nécessité d’introduire dans nos vibrations de lumière, representées par les rouges et les jaunes, une somme suffisante de bleutés, pour faire sentir l’air. »
  53. 長谷川三郎『前掲書』、アトリエ社、22-24頁。
  54. 長谷川三郎、同上、26頁。
  55. 長谷川三郎、同上、56頁。
  56. 長谷川三郎、同上、66頁。
  57. 長谷川三郎、同上、60頁。
  58. 長谷川三郎、同上、70-76頁。
  59. 瀧ロ修造『近代藝術』三笠書房、昭和13 (1938)年、1-2頁。
  60. 瀧ロ修造、同上、6-7頁。
  61. 瀧ロ修造、同上、40頁。
  62. 瀧ロ修造、同上、54頁。
  63. 瀧ロ修造、同上、59-60頁。Ozenfant&Jeanneret,La Peinture Moderne,Les EditionsCrès&Cie, Paris, 1924.
  64. 瀧ロ修造、同上、112-113頁。
  65. 福澤ー郎は、「抽象藝術」『みづ東』第385号、昭和12 (1937)年3月、212-222頁で、バーの、植村鷹千代は、「アブストラクトアート」『アトリエ』第14巻第6号、昭和12 (1937)年6月、33-37頁に於いて、リードとバーの抽象芸術論をそれぞれ紹介した。
  66. 五十殿利治「メカニズムの水脈」(原題「メカニズムとモダニズム一大正期新興美術運動から昭和初年のモダニズム」『藝叢』筑波大学芸術学系芸術学研究室、10号、1993年)『日本のアヴァンギャルド芸術一くマヴォ> とその時代』青土社、2001年、285-318頁、所収/三木順子「機械のエートス一マシンエイジの匿名の主体」『日本における「藝術」概念の誕生と死』(平成11-14年度文部科学省科学研究費基盤研究(A)(2)報告書、研究代表者:上倉庸之)、平成15年3月、165-185頁。
  67. 村山知義『構成派研究』中央美術社、昭和元(1926)年、20頁。
  68. 村山知義、同上、47-57頁。村山は既に、「機械的要素の藝術への導入」『みづ東』第227号、大正13 (1924)年1月、6-10頁に於いて、機械の芸術への導入の初段階を要約していた。
  69. 藏原惟人(くらはらこれひと、1902-91)も、村山と類似の視点から構成派やコルビュジェと機械の特質との関連を以下のように指摘した。「機械の生活への出現は、藝術の純形式的方面をも變革せざるを得なかった。(…)この明瞭さ、單純さ、正確さへの努力は未来派よりも早く現れた立體派の中に見られるが、その觀念的、形而上學的方法の故に、立體派は、近代藝術に幾つかの部分的形式的寄與を爲しただけで、遂にこの問題を解決し得なかつた。その時からこの問題の解決は構成派の人々に委ねられ、そして少くとも建築の領域に於いては、彼等は見事に成功してゐる。構成主義者達が未来主義者と異なつて、機械の特質を、その合理性、即ちその正確さ、明瞭さ、單純さの中に見たことは、我々の既に述べた所である。この心理は機械の直接的影響から現れたことは事實であるが、これはまた正確、單純を要求する生産に参與してゐるもの々日常生活そのものによつても規定されてゐるのである。(…)またイデオロギー的に構成派に近いフランスの建築家コルピュジェは、(…)出来るだけ装飾を少くした、合目的的な、合理的な、明瞭で、正確で、單純な彼等の建築様式が生れて来たのである。」と、両者の共通項を「明瞭さ、單純さ、正確さへの努力」や「合目的的な、合理的な、明瞭で、正確で、單純な」「様式」に求めている。藏原惟人「新藝術形式の探求へ一プロレタリア藝術當面の問題について」『改造』第11巻第12号、昭和4 (1929)年12月、41-43頁。類似の指摘として、古賀春江「機械と美術」『若草』第7巻第6号、昭和6 (1931)年、109-110頁を参照のこと。コルピュジェ(をはじめとする現代建築)と機械の関連については、清水光、香野雄吉も指摘している。清水光「映畫と機械」『新興藝術』第1号、昭和4 (1929)年10月、9-10頁/香野雄吉「建築と機械一現代建築の諸問題」『思想』第87号、昭和4 (1929)年8 月、652-661頁。
  70. 板垣鷹穂に関しては以下を参照のこと。藤岡洋保三村賢太郎「「建築評論家」板垣鷹穂の建築観」『日本建築学会計画系論文報告集』第394号、1988年12月、62-69頁/松畑強「機械美と古典主義、板垣鷹穂論」『季刊思潮』第6号、1989年、144-159頁/岩本憲児「機械時代の美学と映画」『日本映画とモダニズム』リブロポート、1991年、200-213頁/五十殿利治「板垣鷹穂と昭和初年の美術批評」『コンテポラリー.アーティスツ.レヴュー(特集=戦前期の美術批評をめぐって)』第20号、1996年2月、2-7頁/「前掲論文」、1993年)『日本のアヴァンギャルド芸術一<マヴォ>とその時代』青土社、2001年、285-318頁、所収/三木順子「前掲論文」、平成15 (2003)年3月。
  71. 板垣鷹穂「機械と藝術の交流」『思想』88号、昭和4 (1929)年9月号、671頁(『藝術と機械の交流』岩波書店、昭和4 (1929)年、72-73頁)〇
  72. 板垣鷹穂、同上、769頁。インダストリアル•デザインの機械美に関する具体的分析は以下で試みられた。板垣鷹穂「航空機の形態美に就いて」『新興芸術』第1号、昭和4 (1929) 年10月、35-48頁(『藝術と機械の交流』岩波書店、昭和4 (1929)年、113-136頁)/「現代藝術考察者の手記」『新興芸術研究』第1輯、昭和6 (1931)年2月、207-231頁。
  73. 板垣鷹穂「新しい美の理想」『改造』第12巻第1号、昭和5 (1930)年1月、122頁。板垣の機械美については以下も参照のこと。板垣鷹穂『藝術的現代の諸相』六文館、昭和(1931) 年、95、143、191-193頁/「機械の性格描寫」『機械』第4卷第40号、昭和6 (1931) 年11月号、『藝術界の基調と時潮』六文館、.375頁所収。
  74. 板垣鷹穂「前掲論文」『思想』88号、昭和4 (1929)年9月号、780頁。
  75. 板垣鷹穂「繪畫の貧困」『中央公論』第45巻第3号、昭和5 (1930)年3月号、185-186頁。絵画の将来に関する同じ提案は以下でなされている。板垣鷹穂『藝術的現代の諸相』六文館、昭和6 (1931)年、177頁。
  76. 機械と芸術の交流の可能性という、類似の問題意識及び絵画の未来に関する議論は、荒城季夫によって共有された。「新しき世紀の美術一機械美と美術」『みづ泉』第295号、昭和4(1929)年9 月号、354-358頁。
  77. 板垣鷹穂「機械文明と現代芸術」『思想』(再刊号)83号、昭和4 (1929)年4月、74頁。
  78. 中井正一「機械美の構造」『思想』第83 (再刊)号、昭和4 (1929)年4月号、185 (59)-187(61)頁/「芸術に於ける媒介の問題」『思想』第275号、昭和22 (1949)年2月号、100-101頁。
  79. 中井正一「現代に於ける美の諸性格」『理想』第49号、昭和9 (1934)7月、16(444)—17 (445)頁。
  80. 中井正一、同上、17(445)—18 (446)頁。
  81. 中井正一「機械時代と理論並に芸術の適応」『思想』第314号、昭和25 (1950)年8月、524-525 頁。

 

Resume

Reception of Cezanne from the Viewpoint of Zokei (« Plastic », « Plastique », »Plastik ») and the Intellectual Environment

Takanori Nagai

Paul Cezanne(1839-1906), the French artist was criticized and evaluated from the viewpoint of « plastic » in Japan during the 1930s and 1940s.

« Forming », which was the presupposition of criticism of shajitsu(realism), a major topic of the time, focused on the relationship between the three elements of the artist, natural objective, and the canvas on which the image gradually formed. In this way, whereas in a sense it was an issue of moving shapes, « plastic » was a critical form that focused on the shape of the completed image and its autonomous order only. Further, this positioned Cezanne as a father of cubism and abstract art in the art history.

Many critics such as Kotaro Takamura (1883-1956),Uzaburd Toyama (1903-1980),Shigero Narita, and Yukio Yashiro (1890-1975)interpreted Cezanne from the viewpoint of « plastic », but this paper will aim to clarify the intellectual environment of this « plastic » criticism. Therein are two frameworks.

First, there is the Western theory of abstract art formed in the 1930sby Herbert Read (1893-1968)and Alfred H Barr Jr.,in which abstract art obtained « citizenship », and these works were introduced to Japan by Saburo Hasegawa (1906-1957)and Shuzo Takiguchi (1903-1979).Thereby, this faction of abstract art theory spread throughout Japan as well.

Secondly, there was the passionate advocacy of « aesthetics of machine » in Japan at the same time, which was behind the growth and spread of the theory of abstract art.

The theorists who spearheaded this faction were Tomoyoshi Murayama(1901-1977),Takaho Itagaki (1894-1966),and Masakazu Nakai (1900-1952).

« Aesthetics of machine » could not explain expressionist abstract art such as that by Wassily Kandinsky, but was advocated as an important aesthetic that could explain not only the geometric abstract art of De Stijl, purism, Russian avant garde, and Bauhaus, but also modern design.

The Cezanne criticism of « plastic » fell within these two frameworks, and can be summed up as the nature of acceptance fomented by this view of modern life.