「写実」のセザンヌ受容とその思想環境
永 井 隆 則
(3)「人格」、「精神」、「生命」から「形成」、「構想力」論へ
(4)「写実」のセザンヌ受容の理論的枠組みとしての京都学派の芸術論
明治末から日本に紹介されたフランスの画家ポール.セザンヌ(1939-1906)は、最初は印象派の一人として、やがてポスト印象派の代表として紹介され我が国で高く評価されていった。 1910年代から20年代の初頭にかけては、ゴッホ、ゴーギヤンと共にポスト印象派として、印象派から差異化するために「人格」という批評言語によって解釈された。しかし、1920年代半ば 以降「人格」という批評言語は姿を消し、代わって「写実」という言語によって解釈され始め、1920年代半ば頃から40年代にかけて、この解釈は、一般化していく。
日本に於けるセザンヌ像は、海外のセザンヌ像を一定普遍の物としてそのまま受容し定着さられたではなく、その時々の日本人の価値観によって独自に形成され、それによって、その時々の日本人の価値観それ自体が補強されていくプロセスを迪っていった、と言える。
筆者は、1989-90年と1998-2001年の二度にわたって、美術批評に現れたセザンヌ批評を調査した。前者では、1902年6月から1921年12月、後者では1922年1月から1947年1月までの美術雑誌を網羅的に調査し、文献表を作成すると共に解題を作成した。1
この一連の調査から判断する限り、「写実」が、美術批評の中で、批評言語として登場してくるのは、1920年代初頭以降の事である。
「写実」は、前代の「人格」がそうであった様に、セザンヌの絵画のみを評価する言葉としてではなく、広く洋画の制作原理であると共に評価の基準として使用されていった。本稿は、「写実」によるセザンヌ受容を明らかにし、この価値観を背後で支えた思想環境を分析することを目的とする。
「写実」は、ルネサンス以来の写実、クールベの写実など、批評史や美術史に於いて極めて使用頻度の高い言葉であり、そのまま使用しては、読者には殆ど理解不能であろう。従って、第I章ではまず、1920年代半ばに使用され始めた「写実」が、一体いかなる意味を担っていたかを批評資料を紹介しながら分析し、その上で、第n章では、この批評言語が多くの人々に共有され得た思想環境を明らかにしていく。
「写実」は、既述したように、1930-40年代のセザンヌ受容の鍵となる批評言語であったが、既述した様に、一人セザンヌを解釈するために発明されたのではなく、広くこの時代の多くの画家のための制作の指針であり、同時に価値評価の基準として流通していった。
1920年代「写実」は、木村莊八(きむら•しょうはち、1893-1958)と川路柳虹によって、それぞれ、1922年、26年に、洋画家の制作原理として提唱されていた。木村は、「写実」について次のように語った:
「寫實は何と云っても畫技の大道だ。技法にさへ狭く拘まなければ、このやり方は結局ある美が出る。何故なら繪は畫面にものを造形する術で、寫實は(クールべ的上べの考へと云へで)その造形に最も素直なやり方だからである。2」
木村にとって「写実」は、近代的造形を意味しており、その結節点はセザンヌにあった: 「(•••)セザンヌの畫面から或る未来への畫道を洞察した。汎印象派が掘り起こさずに淺く横へ外れたリアルの根のものがセザンヌにあり、猶そのセザンヌの根から更に々々寫實を将来へ展開させる技道が謎の様に閃き、閨の光りの様にまたたくのを見た。3」
川路もまた、写実を「美術の大道」4としながら、伝統的写実主義と近代の写実を区別し、新たな絵画の方法として提唱している:
「(•••)美術の大道は依然として古来の美術の歩み來つた大きい傳統の中に還つてゐるといふことである〇(•••)その大道は何か日く昔ながらの寫實である。斷つて置くがこの寫實は精神としての寫實である。單なる道より藝術上に一分派をなしてゐる寫實主義自然主義をのみ指すのでは決してない。5」
とし、「写実」を造形の問題ではなく「精神」の問題として捉えてはいるが、具体的内容に触れていない。しかし、批評や美術史の用語として広く流布したこの言葉を、印象派以降の近代美術を伝統絵画から区別する概念として何とか差異化しようとしている。
「写実」は以下のように定義された:
「寫實の字義は「實相を表はす」にあるが、それをもっと適確に言へば眞實を表はすにある。(•..)即ち吾々の眼がいかにその本體をみとどけるかに一切の問題はかかる。6」
そして、これを「模寫的寫實」、「客観主義」から区別して、主観によって自然を捉えること、とする:•
「繪で言つても絶對の客觀主義といふものは出来つこはないのである。平面上に繪具によって視覺を欺懣した一つの幻象はどんなにうまく行つても自然そのものではない。よし自然そのものに最も近似してゐるとして單に相似してゐるといふならそれは皮相の自然主義寫實主義だ。(•••)寫實の意識は既に今日多くの美術家にとつて模寫的寫實からは罷脱した。吾々が自然を捕へることは吾々の優れた主觀が自然を捕へるのだといふことは略ぼみんなに會得されてゐるだろう。が、それにもかかはらず、時々この優れた主義を侯たず、實にお粗末な、また剛慢な主義をもつて自然に對する作家がある。6」
とし、印象派以降、次々と様々な主義が現れてきた後で、「写実」を現代(1926年当時)の最も有効な道として主張した。
川路にとって、「写実」は、自然に接する画家の態度であり、客観主義を装う模倣に対抗する精神のあり方であった:
「出来るかぎりの力をもつて實在を觀抜くこと、そこから彼の自由な精神を生み出すこと、この二つにして一つな精神、それこそ寫實の大道に即する藝術家の永遠な歩みである。7」
川路、木村によって示された、新しい絵画の指針としての「写実」は、1930年代に入ると美術批評の中心的言語として、その意義が活発に批評界で議論されていく。これは、幾つかの美術雑誌で、「写実」、「レアル」、「レアリスム」に関する特集記事が組まれた事から明らかであった。『アトリエ』第8巻第9号(昭和6年9月)、『アトリエ』第15巻第1号(昭和13年1月)、『アトリエ』第15巻第2号(昭和13年2月)、『美術新論』第8巻第1号(昭和8年1月)、『美術』第10巻第2号(昭和10年2月)は、30年代に於ける写実論の流行を証言している。
この時代に浮上してくる「写実」は、レアリスムという言葉でしばしば置き換えられているが、ルネサンス以来の自然主義、クールべ以来、フランス.アカデミズムにも浸透したレアリスムとは異質である。むろん、この時代に現れた多くの「写実」論者の間には、多少の見解の相違はあるものの、真の写実とは何かを問いかけて、多くの議論が提出された。
例えば、洋画家、伊原宇三郎(いはら•うさぶろう、1894-1976)は、昭和6年9月の『アトリエ』第8巻第9号に於ける特集号で、「真の写実」を「写生」から区別し、
「真の写実とは大_然の精神、大自然の原則を見究めることであって、自然の瞬間的現象や技革的條件に禍ひされ、惑わさるに自然本来の姿を捕捉し、感得、表現することで、単なる写生、写形は、その小部分に過ぎないと考へるのである。8」
「此事実は、十九世紀中葉迄は、寫形も美術の一大要素であった為に、比較的容易に認容されるのであるが、それ以後、畫家の主觀や個性が、畫面であらはに活躍する様になってからは、兎もすれば真の寫實が等閑に附せられる傾きがある。9」とし、ルネサンス以来の自然主義のみならず近代以降の個性や主観を強調した絵画から、「真の写実」を区別している。
さらに、自然主義でも主観主義でもない第三の道としての「大写実」を確立したのがポスト印象派だとする。
「次いで、かかる視覺にのみ依る寫實から更に一歩を深めて、作家の個性を徹して自然の内面に持つてゐる精神を捉へる大寫實に到達したのが後期印象派で、其後の美術の進むべき形而上、形而下両問題の重大な扉を開いたものである。9」
「大写実」の具体的あり方は以下のように説明される。
「自然の一角を切り取って、その外貌を似せただけでは決して寫實とは言へない。(•• •)自然本来の魂を捉へ、既知、未知の_然の大原則を感得して、それを表現する寫實力を持ってゐれば、造型美術の必要から、もしその畫家が何んな極端な單純化や變形を敢えてしても、寫實の大精神は作品に生命を輿へるであろう。10」と、「単純化」や「変形」といった「写実」の具体的手法、即ち「造形」を指摘した〇r写実」の「造形」は自然の真実を把握するための手段であり、此を実践したモデルとしてセザンヌを取り上げている。
「セザンヌは、此複雑な自然の中から恒久的な眞實を掴み出した。10」
伊原は、1933年の『美術新論』の特集号に於いて、再び写実論を展開する。ここで、同時代の「写実」論争について、
「近頃また新らしくレアリズムの問題が改めて皆に考へられかけた事は喜ぶべき傾向だと思ふ。」11としながら、
「写実」を「写生」から区別して新しい写実を定義しようとした:
「寫實といふ言葉は誰も口にする事だが、題材を表面的に、視覺的に忠實に描けば、それが寫實だと思っている人が多い様であるが、私の考へではそれは寫生で、寫生と寫實とは根本的な相違があると信じている。12」
「本当の写実」を「クールベのレアリスム」に求め、
「寫生、寫形は只視覺のみにたよるものであるが、本當の寫實は視覺だけでは足りない、クールべは充分視覺を尊重してゐるが、クールベのレアリスムは可視的なものばかりではなく、もっと深い自然の實形や實在や、所謂寫實の本質に充分ふれたところに、その偉さがある。12」とし、更に進んで、クールベのレアリスムから区別して近代写実を以下のように定義する、
「一本の線を引張つてもセザンヌやピカソやルオーの線には、恐しい程の實在的迫力を持つている。12」
「近代的な色の美しさや、もっと繪畫を純粹に強力化する為に、デフォルマシオンやサンプリフィ力シオンやデコンポジシオンの様な解釋なり、手法を提示して呉れたり、繪畫の中から感傷や文學的趣味や、その他の繪畫として第二義的な附帯條件や、要素などを取去る尊い努力を重ねて来てくれてゐる。12」
とし、近代「写実」の具体的手法として、「デフォルマシオン」、「サンプリフィカシオン」、「デコンポジシオン」をあげている。まさしく、木村莊八が、「繪は畫面にものを造形する術で、寫實は(•••)その造形に最も素直なやり方だからである。2」
と述べて具体的には説明しなかった「造形する術」が、伊原によって指摘された。
洋画家、中山巍(なかやま•たかし、1893-1978)もまた、自然主義や写生から「写実」を区別して、
「寫實と寫生とを混同するのである_然主義的見地から寫實を云々することは最も誤りの源である。寫實はその取材を物語らうとするのではない。幻想は勿論意義をなさず眼で見得た範圍内の仕事である。空間に於ける物(立平面)の存在、形、塊、量、質、諸物の関係を描寫するのが
主である。13」
更に
「寫實は第六感により眼に見えざる第三面を感じ又は想像することを許さない。1叫「所謂新寫實主義なるものが単に取材の再描寫(寫實主義の条件を具し)のみでなく作家の感動とその表現意志を強調して呉れるものであるならば私はその畫作態度を誠に結構だと信じる。14」
中山の言う「写実」即ち「作家の感動とその表現意志を強調して呉れるもの」とはまさしく、個性的な自然把握とその実現の手法に他ならない。
洋画家、伊藤廉(いとう•れん、1898-1983)は、「写実」を印象派の手法からポスト印象主義、即ち、セザンヌ、ゴッホ、ルノアールの手法を差異化する言葉として使用した0
「(•••)印象主義は視覺的自然観の極限ではあり得た。(•••)しかし視覺は自然觀の凡てではあり得ないのだ。人類は活動に於て自然を感じている。それゆへ眼のみの精査によっては全人間性の運動の表現は不可能である。自然の本質はその他にもある。後期印象主義として私たちが知っているセザンヌ、ゴーグ、ルノアルなどは印象主義に対する反動的なものである。即ち印象主義の視覺先制に對する全人間性の反抗的活動である。彼等は傳統や成心(概念)を去って、自己の體驗を主張する。複雑なる自然のなかより自己の官感に觸るるエツサンスにアクサンをおいて表現する。例へばルノアルの藝術はきわめて觸覺的である。視覺の世界は対立の世界だ。觸覺は自然に交叉する。ルノアルの裸體は私たちにその皮膚の觸覺から直接、生に關係する。•即ち、彼の藝術に於ける認識は觸覺的による自然の寫實に外ならない。15」
とし、新しい「写実」の意味を「傳統や成心(概念)を去って、自己の體驗を主張する。複雑なる自然のなかより自己の官感に觸るるエツサンスにアクサンをおいて表現する」事にあると指摘した。
換言すれば、「写実」は客観的模写ではなく、主観的真実を画面上で語ることと定義されている。
三〇年代の「写実」論争において、とりわけ争点となった問題は、「写実」の「実」とは何か、であった。内山義郎は、「レアル」にっいて次のように説明した。
「これは、感覺的経験の現實性(Wirklichkeit)が、如何に現實的真實性(Wahrheit)にまで作家の魂に依って現證されるか、の問題である。この事情はこの感覺的経験の現實が作家の魂、換言すれば作家の必然的解釋即ち作家の世界観に濾過されて、必然性(Notwendigkeit)として直證される立場を要求するのである。16」
レアルとは「もっと具體的に云へば、作家の「眼」に映じたところの自然物を、ただ外から模寫するのではなくて、その自然物を作家の魂のうちに、一旦溶け込ませ、或はその自然物のうちへ作家の魂が這り込んで、その自然物と作家の魂との共力から生じた、かくあらねばならないと云ふその自然物の等價體を畫面に描くことであって、それは最初の作家の眼に映じた外々しい自然物が最早作家の魂と切り離すことの出来ない自然物として、そこに純化されて表現されてくることを意味するのである。16」
ここには、主体と客体の合一の中に現れる純粋経験を「レアル」とする考えが提出されている。前代の美術批評は、これを「人格」と呼んだが、内山は、この人格主義批評の流れをここで復活させた。以下の一文は、それを明瞭に物語っている。
「丁度人格が人格と語り合ふ世界に似たものを感ずるのである。この點に於て、私は藝術の世界と人格の世界と相通じてゐること、その作家の眞實性を通じてのみ藝術は永遠性を持つことを確信せずにはゐられない。そしてこの作家の眞實性こそ、その時代の現實性に他ならない。16」相良徳三はまた、写実主義絵画論を展開しながら、「レアリテ」について以下のように説明した。
「繪畫に於けるレアリテは、眞實と事物の形と、この二重性の上に成り立つている。どちらを缺いても、駄目である。例えば眞實だけあっても、事物の形のない作品は、レアリテとは関係を持たない。ミケランデエロ、ルウべンス、セザンヌなどの作品が、厳然たるレアリテを持つてゐることは、誰しも否定しないであろうが、彼等の作品は同時に、事物の立派な形を持つている。17」
叫別の所では、
「畫家達にとって厳然たるレアリテ、必然の感じ、又は生動する気韻的作品の機縁となるものは、云ふ迄もなく、彼自身の眼をとほしての個々の具體的な事物であろう」18」
とする。
以上を要約すると、「写実」の「実」とは、作家が自然について実感した真実性と作家の眼が捉えた自然の具体的姿が共に失われることなく統一された現実感であったと言えよう。
セザンヌは、以上紹介してきた「写実」の美術論が展開される中で、その最も代表的な作家として三〇年代に紹介されていった。
洋画家、矢橋六郎(やばし•ろくろう、1905-1988)は、「レアリズム」という言葉を選択しながら基本的には同時代の「写実」論に与しながら、セザンヌを「レアリズムの本質」を体現した画家の代表として例に取りあげた。
「レアリテの無い藝術は存在し得ない〇(•••)作家の人格の高さ、教養の高さ、世界觀の廣さが、自然と結びついて、作家と自然が等體的となって生れた作品こそレアリズム繪畫である。繪畫は實在の現象の記録的存在ではない。(•••)セザンヌの人體は(水浴の圖等に於ける)畫面の世界の一割役(人鉢としてでは無く一物體として)を演じてゐるので、單なる肉鉢の外觀描寫としてゐるのとは異なる。寫實主義繪畫の重要なるポイントはここにあると思ふ。單なる寫實に止まらず「眞實」の把握こそレアリズムの本質であろう。19」
美術評論家、植村鷹千代(うえむら•たかちよ、1911-)は、セザンヌの美術史上の地位を「新しいレアリズム」の祖として、以下のように要約した。
「繪畫上のレアリズムが神學と劇的精神から解放され、近代自然科學の上にその定立を始めたのはセザンヌによってである。セザンヌは先行時代のレアリズムをその内容、形式共に切斷した。この新しいレアリズムはピカソに至るまで發展し、進行した。20」
同じく美術評論家、柳亮(やなぎ•りょう、1903-78)は、セザンヌを美術史のレアリズムの系譜の中で位置付けた。柳によれば、セザンヌは、新しいレアリズム、即ち視覚ではなく触覚のレアリズムを切り開いた画家であった。
「この推移の過程に於いて、線との併用により、或ひは、線に代るものとして、「面」を考へたセザンヌの存在は見逃がすことの出来ない重要な事實であって、「點」の繪畫から「線」の繪畫に至る中繼的な段階としての「面」の繪畫の出現は、以下の進路、すなはち発展の順序と方向を一層明瞭に物語るものと言ふことが出来る。(•••)平塗りの繪畫から、點の繪畫へ、點の繪畫から線の繪畫への移行は、實に視覺的レアリズムから、觸覺的レアリズムへの移行に他ならないものであった。」21
「更に印象派以後、性格強調的要素としての、デフォルマシヨン及び線を再發見したことは、繪畫の視覺形態から觸覺形態へのコペルニクス的轉同をもたらした。近代繪畫がデフォルマシヨンの造形的意義を發見したことは、線の再發見に於けると同様、「レアリズム」の歴史上の分野をいちじるしく擴大したが、ここに一っの問題を現出せしめた。」22
中山巍は、「寫實主義寸感」というエッセイの中で、「写実」ではなく「写実主義」という言葉を使いながら、セザンヌの写実主義の特質として、実在惑に注目し、次のように具体的に作品に即して説明した。」
「セザンヌの「村道」には點景の人物も動物もゐない。固い森の茂りの中には小鳥は住まふことは出来ない。人物畫は机上に置かれた林檎の様に動くことも笑ふことも想像出来ない。白い布は石の様に固い塊を想はせる。只そこには畫面に描き入れられた諸物が空間的なっながりを保ち實在感を強く表はしている。セザンヌは決して詩を歌ふとも意識せず、また幻想に惑はされもせず、また何かを物語らうともしなかった。對象の形と量に而して諸物の空間に於ける有機的な調子の連絡を第一に求めた。」23
美術批評家、翻訳家として活躍した中井愛(なかい•あい)は、写実、レアリスム、写実主義といった言葉は使用していないが、セザンヌが「レアリテエ」を「感覚」に求めたとする。この点で、同時代の写実論に与していた、と見てよい。
「その出發點を正しく導かうと若い畫家に彼は書き送った.クーチュールがその弟子に「より交りを持て」と教えた、これはルーブルへ行けと云う意味であるが、そこにある大家名匠を見たならば急いでそれから出發しなければならない。そして吾々のうちに住む藝術感覺をば、自然との接觸に於て、自分のうちに生き々々させねばならない•と。そしてまた云う「吾々は畫家であるから、充溢せるレアリテエの中に完き色完き光澤を見る、對象にぢかにぶっかり、袴がみをっかまねばならない(•••)この自然のうっり行く現象の内に變らざるもの、畫家の接取する感覺を形象化することが、セザンヌの限りなき追求であった。」24
この点で、セザンヌを「現実主義者」と規定した。
「現實の破綻を時代から宿命的に負ひ、なほ且っ地上の幸福を理想に持っセザンヌは肯定的な現實主義者である。彼は人間をも含めた自然に、この理想をもって取組むことを強要せられた。そこからテオリーを見出さうとする真摯なる科學者の態度をもってタンペラマンを、感覺と體系の一致した様式を、組織を、綜合から抽象への道を彼は追求した。」24
また別の所では、夫で美術史家の中井宗太郎(なかい•そうたろう、1879-1966)の東洋的芸術概念、25ヨアキム.ギャスケの神秘主義的ロマン主義の記述及びギャスケに着想を受けた中井宗太郎の記述から感化を受けて、次のようにセザンヌの目標を説明した。
「主客渾融の自然の戦慄を自分の感じたま々を他に享有させねばならない、セザンヌはこの時個人の感傷や感じをどこまでも排して普遍的なサンスに到達しようとする、そこで實在の根に喰ひ入りしがみつき、その血の出る根をひきぬいて來ようとする、彼がレアリテエに於て畫かうとする追求は實にここにあった。」26
「自然の、主客渾融の平和なる涅槃の境地、見得ない神性、太陽への愛が湧出する。
.感覺の完極、ここに一つの合一點、スチル(云う所のスチルとは、あるクラシックの形象を獲得して自己表現を得る)を陶冶して渾然の境に到らうとする•の飛躍を、セザンヌは豫期せるかのやうで表る。」27
中井あいは、エミール•ベルナール、モーリス•ドニを参照しながらも、セザンヌをロマン主義的に解釈し、後にメルロ•ポンティ一のセザンヌ論の着想限となった、ヨアキム•ギャスケの「セザンヌ論」を翻訳したことで知られる。中井は、東洋の宗教観や一九一〇年代の中井宗太郎の人格主義を引き合いに出しながら、ベルナール、ドニの指摘したセザンヌの感覚の重要性に注目し、後にメルロ•ポンティ一が確立した現象学的セザンヌ解釈を予想させる独特のセザンヌ解釈を提出した。
以上のように、矢橋にとっては、「真実」、柳にとっては、「触覚」、中井にとっては、「感覚」と、批評者によってセザンヌの「写実」の「実」の具体的意味は異なる。が、何れもセザンヌを「写実」の最も代表的な実践者として評価し、「写実」の「実」の典型をセザンヌの絵画に求めた。
以上、写実論者の言説の幾っかを紹介してきたが、これを纏めると、「写実」は自然対象にっいて得られた主観的「実」(レアル、レアリテ)を個性的な造形によって目に見える様にする制作態度であった、と要約できよう。
それでは、「写実」の「造形」とは具体的にどのような手法を意味していただろうか?もはや、これまで紹介した批評にも、ニ、三の指摘があったが、さらに、以下で、幾人かの言説を迪ってみよう。
福田新生は、「写実」の「造形」の特に「デフォルマシオン」に注目し一文を寄せた。
「我々の時代を歴史的に見て、このデフォルマシオンが藝術の上にあらはれたのは、フランス•リアリズムの崩壊期、理想主義的傾向が表面に押し出され始めた瞬間からである。セザンヌ、ゴッホ、マチス、ピカソ、ルオー等に於てますますデフォルマシオンは判つりあらはれ、それは近代繪画の一っの特質的な要素となるにいたった。それには、確かな理由がある。平板な外面描寫に止るフランス•リアリズムの唯物論的基礎の無力化に伴って、客觀に対する主觀、現實に対する観念の優位性と自立性に立脚する主観主義の傾向が擡頭したからに外ならない。」。28
としながら、ゴッホ、セザンヌの「デフォルマシオン」を次のように差異化した。
「しかし、セザンヌやゴッホの場合は違っている。自然の表面に止らず、その立體的な組織や、流動する人間の意識的活動のために、主觀は_然の外面性に對する『物理的反應』をも早や突破する。せざるを得ぬ。ここでは繪畫は、自然の機械的模寫ではない。主観的活動の格闘を經て、自然は再生産される。セザンヌとゴッホとにあらはれたデフォルマシオンは、自然主義の機械的な又その平板な模寫主義に對する批判•修正のなかから生れた。ここで我々が見忘れてはならないのは、セザンヌやゴッホのデフォルマシオンが、主觀的活動の恣意や空想性に依拠するものではなく、明確な現實的目的を持つていたといふ點である。」29
さらに続けて、「近代美術のデフォルマシオン」の誕生した歴史的必然性を説明し、また、それこそが、近代リアリズム(換言すれば「写実」)を伝統的自然主義から隔てる点として、以下のように論じた。
「近代美術のデフォルマシオンは、我々の社會生活が一定の發展をとげ、従来の、平板なリアリズムが、我々の生活内容を表現するには不十分となった時期に、その矛盾のなかから發生したものである。したがつて近代美術のデフォルマシオンは、その發生の初期に於ては、明かにより内面的な、より力強い、眞實の姿を表現するために創造された藝術的方法であり、手段であり、テクニックであった。(..•)しかしデフォルマシオンの現實的な意義は、自然の形態の表面的な秩序を破壊して、その内面的な組織に喰い入る點にある。したがつて、リアリスティックな高度な藝術的表現には、デフォルマシオンは避くべからざるものであり、従来套襲された主觀的なデフォルマシオンとは全く性質を異にする現實的なデフォルマシオンがそれに適合する。近代的リアリズムが自然主義とその性質を異にするのは、この點にもあらはれる。」29
洋画家、山下新太郎(やました•しんたろう、1881-1966)も、「デフォルマシオン」について次のように要約した。
「こと新しく云ふまでもないが、自然の單なる寫生だけでは自然の意味を充分に表現することが出来ないから、むしろこれに自然以上の或る形を求めて、その結果として生じたものがデフォルマシオンなのである。従つてデフォルマシオンの本當の意味は、決して自然からはなれることではなく、むしろ自然に肉迫しやうとする努力に外ならない。」30
「日本でデフォルマシオンがはやることは畢竟西洋で流行つてゐるからに外ならないのだが、西洋の事情を直ちに日本にとつては移せぬが、西洋では決して寫形の練習が等閑に附せられてゐるのではなく、少なくとも、デフォルマシオンをやつてゐる畫家のうちでの優秀作家は、皆寫形の力を充分もつてゐる人達で、日本の一部に流行してゐる様な「歪み」をしか畫けぬ技術とは雲泥の相違あるものである。」31
と西洋の伝統的なレアリズムに根ざした真の「デフォルマシオン」を説いて、日本の主観主義「デフォルマシオン」を批判した。
福田や山下の指摘した「近代美術のデフォルマシオン」、換言すれば、「写実」の「造形」をより具体的に、最も明快に語ったのは、洋画家、安井曾太郎(やすい•そうたろう、1888-1955)と須田國太郎(すだ•くにたろう、1891-1961)であった。32
安井は「写実」について以下のように説明した。
「寫實といふものは、空想的なものではなく、現代生活の中に実際あるものを、如何にそのものが其処にある様に、しかも繪畫的に表はすことだと思ひます。併しそれは其処に在るものを何から何まで其の通りをしき寫しするのではありません。」33
そして「写実」の技法を具体的に、次のように説明した。
「生き生きとした自然のものを畫面に現すには、どうしても必要なだけの變形や、強調や省略が入用だと思ひます。勿論さう云つた繪は、その實際の景色だとか實際の人物だとかつき合して見た場合、無論形や色は違つてはゐますがその繪から受けるものは矢張り全く本當の_然の景色や人物や花であると思ひます。」33
安井は、「写実」の「造形」を「変形」「強調」「省略」としたが、その典型的な実践をセザンヌに求めた。
「或る日セザンヌの繪の澤山集つてゐるペルランのコレクションを見ました、それは確しか郊外のボア一の近くにあつたと記憶しますが、そのコレクションを見まして、その家を出てからも矢張りその邊の景色がセザンヌの繪の連續のやうな氣がして感心しましたが、それは確かにセザンヌにしつかりした寫實力があったからだと思ひます。(•••)併しセザンヌの繪は、實際とその繪をつき合せて見た場合、形や色は違つてゐるでせうが、その畫面に現れてゐるものはその實物そのままなのです。静物なんかを見ましても、如何にそのものを充分現はさうかといふことに眞劍であつたかがよく解りますし、セザンヌが常に稱へて居つたレアリザシヨンなる言葉を十分裏書してゐます。」33
他方、須田は、30年代になされた「写実」論の最も雄弁で明快な論客であった。「写実主義の存在理由」、「近代絵画とレアリスム」は、この時代の写実論のエツセンスを提供している。
須田は、同時代の絵画思潮に「レアル」からの逸脱を見、これを危機的状況と見なし、写実主義こそ絵画史の中核に在るものととして、写実主義を提唱し写実論を展開した。
「絵画があらゆる意味からレアルを離れてしまったというものを、我々は未だ見たことがないのである。恐らくそういうものは絵としての存在を失うものであろう。今このような段階に在って、近代絵画に於けるレアリスムを論じようというのである。この見地からみると世界のあらゆる絵画は、それらの作者たる画家達が如何にレアルに対しているかの回答といってもよいのである。恰も哲学者達が今日までこの実在の問題について考え続けてきたように、レアルが最も大きい絵画の表現上の問題であり、絵画史の中核をなす契機ということが出来るのである。」34
須田は、「写実主義」を「素朴模写説」とも主観主義とも異なる第三の選択肢として規定した。すなわち、「現実的真」と「芸術的真」との一致、換言すれば、芸術家による「現実把握」に「写実主義」の「実」を求めている。
「寫實主義に於ては、作家は自然に對して最も素朴な態度をとるところにその特質があるわけであるが、同時にその美意識と一致してゐるものでなければ素朴模寫説に陥るのみである。これを離れた自然模寫と云ふことは決して藝術ではない、無用の技術である、藝術が寫實を要求するところのものは、その意味で現実把握でなけらばならない。寫實主義をして寫實的ならしめることは現実的眞をその藝術的眞と一致せしめることに在るのである、藝術的眞が所謂現実的眞と遠ざかるに従って藝術上の寫實主義はその限界外に去ってしまふのである。」35
この第三の選択肢としての写実主義の模範例をセザンヌに求め、其処に「無限の進展を遂ぐべき可能性」があると主張した。
「われわれはそう云った自然主義の態度からこの寫實主義を脱出した人々を多く經驗している。セザンヌなどは最もその偉大なる實例である、写實主義は遂に藝術的真と現實的眞との一致點より他に存立の理由をひきとめ得る立場は無い、そこから写實主義は無限の進展を遂ぐべき可能性が與へられるのではないか、現實と絶ち難き宿縁を藝術は見捨ててはならない。」35
写実主義の観点から、安井と同様、須田も、近代写実の典型と彼が見なしたセザンヌの「造形」を解析した。それは、同時代の誰よりも、具体的且つ明晰に説明された。
須田によれば、自然はセザンヌの制作にとって不可欠であった。
「セザンヌに依て近代繪畫に太いなるー轉期を来したとすれば、その重要性の根本問題はなにかといふことになりますが、それは一言にして申せば、自然に對しての新しい見方にあるといふ事に歸着するやうであります。」36
「(•••)彼は自然から彼の見る自然を實現することに一生をかけました。それは彼の創見
を造り上げ、自然の見方に一つの新しき分野を開拓したものでありました、寫實主義が自然を離れて存在しない如く、セザンヌの藝術の偉大は自然を超越しては解し得ないのであります。セザンヌの偉業が自然に對してなされたことは、藝術が自然と何等かの交渉を斷たない限り不朽であります、我々後學はセザンヌの不滅の業績の恩恵に多少に不拘浴してゐると云はねばならぬのであります。」37
「セザンヌの提供する問題は、凡て自然に對するものといっていい。事實セザンヌ程、自然を高調した畫家は少い。彼は最後の解決は必ず_然への言葉を以て所論を結んでいる。絵畫と云へば凡て_然とは、廣い意味に於ては、不可分の関係があると云へるが、セザンヌの場合に於ては飽くまでリアリズムの立場からのことであることを感ぜざるを得ない。」38
セザンヌの「自然に対しての新しい見方」、「彼は自然から彼の見る自然を実現すること」、即ち、彼が開拓した自然の見方に関する新しき分野とは、須田に依れば幾つかの「造形」に整理された。
「色彩階調、即ちmodulation」39、「素描と色彩は不可分のもので、色彩と素描は相互的な調子の連關であること」、40「自然のうち固体の第三面、即ち物体の深さを確かに実現しようと試みること」、40「ゆるがぬ物體の造形的構成を色彩に於て顯現する自己固有の組織を生むだ」、41「時には非常な歪みやいびつが起つてきます、かういふデフォルメ「變形」は彼の作品に特有のものとなりました。此變形こそ、以上述べたような態度からして自然に起つたもので、セザンヌのもつ彼_身の傾向を示すもの」。41
さらに、煩田はレアリスムの立場からセザンヌとセザンヌから着想を得たキュビスムの幾何学化を以下のように区別した。
「それは初期の立體派者(キューピスト)によつて初めてなされたところで、セザンヌは、雜多にして變化の無限なる自然の外形を凝視することによって基本的な幾何學的個體的に整理するのである。決して自然個體を、圓筒體や立方體の幾何學的形體に置き換へるのではない。少なくとも自然の表面の上にそれらの形をあらはすのではない。自然の原型として自然の底裡にみるのである。セザンヌの自然モチーフに於て單純化がみられるといふのは、かくの如き幾何學的形式に還元して、物體を表現するといふことではなく、個體そのものの不動の姿を求めて變化的な剰物を排除する結果である。この單純化は必しも幾何學的原型式とはなるに限らない。自然を幾何學的原型式に於て捉へるといふことは、この單純化とは別物である。セザンヌの單純化は抽象化ではない。その點セザンヌはなほリアリズムの立場をはなれてゐないのである。」42
須田によれば、いわば、セザンヌが自然に対して帰納的態度をとったのに対して、キュビスムが演繹的態度をとった点で両者は異質であった。この須田のセザンヌ解釈は、次に解説するように、同時代の制作現場の状況から生まれた独自の解釈でもあった。
20年代に批評言語として登場した「写実」は、30年代になって、何故、多くの批評家の共通の価値観として浮上してきたのであろうか?この問題を考えるヒントは、これまで紹介してきた写実論者の多くが画家であった点に求められる。既に紹介した美術雑誌に於ける「写実」、「レアル」、「写実主義」特集号への寄稿者を以下に紹介しておこう。
1『アトリエ』第8巻第9号(昭和6年9月):
新寫實の研究;伊原宇三郎(「新しい寫實の問題」)、宮坂勝(「新寫實の一考察」)、中山巍(「寫實及新寫實主義雑感」)、伊藤廉(「現代フランス繪畫上に於ける寫實主義」)、高島達四郎(「新寫實主義」)、安井曾太郎、中川一政、椿貞雄(「寫實」)
2『美術新論』第8巻第2号(昭和8年1月):
レアリズム研究;藤島武ニ(「レアリズムを再び檢討す」)、安井曾太郎(「私のレアリズム」)、堀田清治(「レアリズム」)、伊原宇三郎(「新しいレアリズム」)、山下新太郎(「繪畫上のレアリズム再吟味」)
3『美術』第10巻第2号(昭和10年2月):
森田龜之助(「レアル雜考」)、伊原宇三郎(「新らしいレアル」)、小林古徑(「東洋畫の寫實」)、安井曾太郎(「寫實とセザンヌ」)、梅原龍三郎(「ルオルの寫實」)、伊藤廉(「ルオー」)
4『アトリエ』第15巻第1号(昭和13年1月):
レアリズム検討;フヱルナン•レジヱ(植村鷹千代訳)(「新しいレアリズム」)、相良徳三(「新寫實主義繪畫論」)、内山義郎(レアリズムに就て」)、瑛九(「作家としての覺書」)、安井曾太郎(「寫實」)、中川一政(「寫實と象徴」)、中村研一(「レアリズム小惑」)、福沢一郎(レアリズム論の餘白へ」)、長谷川三郎(「レアリズム雑録」)
5『アトリエ』第15巻第2号(昭和13年3月):
レアリズム検討2 ;川島理一郎(「レアリズムに就て」)、硌伊之助(「強い永續性」)、林武(「寫實三元論」)、中山巍(「寫實主義寸感」)、内田巌(「レアリテの究極性」)、栗原信(「畫家の立場から」)、矢橋六郎(「レアリズム一考」)、猪熊弦一郎(「寫實」)、宮本三郎(「廣義のレアリテ」)、荒城季夫(「レアリズム斷想」)、須田國太郎(「寫實主義•クールベの場合」)、植村鷹千代(「レアリズムとアブストラクトアート」)、相良徳三(「寫實主義繪畫論(2)」)
このうち、伊原宇三郎は、1930年協会に出品しながら、後にドランやピカソの古典主義的具象画に着想を得、中山巍は、1922-28年渡仏、ヴラマンクやシャガールに傾倒、1930年協会に参カロ、独立美術協会を創設し、伊藤廉は、1927-30年まで渡仏、ルオーと交流し、帰国後、独立美術協会を創設し、矢橋六郎は、1930-33年渡仏、帰国後、同じく自由美術家協会の創設に参加、安井曾太郎は、1907-14年滞仏、セザンヌに最も傾倒し、帰国後はニ科会で発表、須田國太郎は、1919-23年滞欧、帰国後は独立美術協会で発表した。
30年代と言えば、ヨーロッパ各地で抽象美術運動が発生し市民権を得ていた時期であったが、当時のヨーロッパでは、セザンヌを起源とし、マテイス、ピカソを筆頭とする20世紀の近代具象絵画が脈々と受け継がれていた。以上の作家達が「写実」論を展開するにあたって選択していたのは、この近代具象の系譜であり、1926年結成の1930年協会、1930年創設の独立美術協会、1937年結成の白由美術家協会の会員達、即ち具象系の作家達が中心となっている。
安井、須田を中心に「新写実」が活発に議論されたのは、須田の議論に明白なように、一方で、それまでの、南画、文人画を受け皿とする日本的フォーヴイスムが示した極端な主観主義への反省から、当時の画壇がヨーロッパの近代「造形」を基礎とする新しい写実へと展開し始めた事、
他方で、当時ヨーロッパで盛んとなった抽象美術へ組みすることなく、南画、文人画の「気韻生動」を規範とする_然描写の伝統をヨーロッパの近代造形を基礎に存続させながら、西洋の即物的なレアリスムへ対抗する、所謂、日本的油絵が自覚的に模索され始めた事、この二つの動機付けが、新写実論の展開に控えていたとみることが出来よう。
では、このような新写実論が展開された思想環境は、一体如何なるものであったのだろうか?批評行為が何らかの認識システムやイデオロギーを前提としている限り、新写実論の展開は、同時代の思考の枠組みの変貌とも無縁ではなかっただろう。しかし、30年代日本の思想状況を網羅することは困難であり、本稿では、西田幾多郎を中心とする京都学派の哲学や芸術論の展開に、枠組みの一つがあったことを示していきたい。
1930年代の京都学派の芸術論の大きな特徴として、二つのポイントが挙げられるだろう。一つは、主体と環境との弁証法という視点から、主体の側の純粋な意識現象ではなく、自然を含む様々な意味での創作主体を取り巻く環境との関連で、創作を説明しようという試みを始めた点。
二番目に、ベルグソンを批判し、カント、フィードラー等をモデルとして、「人格」、「精神」や「生命」といった概念から解放され、これを主体の「形成力」、「構想力」として具体的に説明し、独特の創作論を展開した点。
1920年代初頭に集中して執筆された西田の芸術論『芸術と道徳』のキーワードが、「人格」であることは別のところで明らかにした。従って、ここでは、20年代の西田の議論を簡単に概説するにとどめたい。西田にとって、「芸術的内容」とは「人格的潜勢力の衝突によって生ずる内容」であり、「藝術的創造作用」とは、「人格内容」の「表現」であった。43
あるいは、「美とは超知識的なる深い生命の内容の表現でなければならぬ。我々に直接なる行為の立場に於ては、すべてが人格的生命に充ちて居る。此内容を直に表現するものが藝術家の創造作用である。」44
とされた。
「人格的價値」とは、「作用の作用」、45「無限に純なる作用の統一」46、「色や形の.經驗の背後に潜める人格的内容」47あるいは、「無限なる人格のリズム」とは「無限に深い生命の流れ」
であった。48
このように、1910-20年代の西田の芸術論に於いては、もっぱら創作主体の内在的側面の考察に力点が置かれていた。西田が自己の芸術論を展開するにあたって参照したのは、ベルグソン、フィードラー、ツエ一レン等であったが、西田が芸術の芸術性の核とした「人格」や「生命」は、出発点から、「形成作用(Gestaltungstaigkeit)」49 を含むものと考えられていた事に注目しておく必要がある。早くも、1916年の「現代の哲学」50では、印象派とセザンヌの違いを画面に喂無く浸透する「absolute Gestaltung」に求めている。
1919年の「藝術の對象界」では、ツエ一レンの仕事を紹介し、フィードラーを引用しながら、「知覚意識vorstellendes Bewusstseinの續きたる芸術家の成形作用Gestaltungstaigkeitに純一なることに依つて、芸術的無限の世界が開かれる」と指摘した。51
西田は、芸術論の形成にあたって、ベルグソンよりもフィードラーやツエ一レンをより多く参照していたが、Gestaltungstaigkeit、Gestaltungの問題は、西田自身によって哲学的にも、具体的芸術作品に即しても、概念の提示以上に詳細に考察されることなく終わっていた。
30年代に入ると、「人格」とほぼ同義語として使われていた「生命」は、主体の内在的次元での内容から脱却して、環境との弁証法的関係性として説明されていく。「生命と論理」(1936年)52 や「生命」(未完53)において、芸術創作をモデルとしながら、「環境」が「生命」を規定し、「生命」が「環境」を規定するという、相互的な関係を「生命の論理」として提唱し、身体の行為的直観活動を通して絶えず「環境」の中で自己を変え、また同時に別の「環境」を作り出していく創造行為に「生命」の在処を認めた0
「私と汝」においては、この問題は次のように語られた。
「環境が個物を生み、個物が環境を變じていくといふ個物と環境との関係は生命と考へられるものでなければならない。(•••)真の辮證法といふものが考へられるには、物が環境に於てあり、環境が物を限定し、物が環境を限定するといふ考から出立せなければならぬ、即ち場所的限定の立場から出立せなければならぬ。」54
これと共に、その芸術論もまた、微妙に変化した。1930年代の西田哲学に於いて、ベルグソンは明確に批判され、その芸術論ではフィ一ドラーが強固なモデルとなっていく。西田は、1910年8月の「ベルグソンの哲學的方法論」『藝文』第1年第8号、55 1911年11月の「ベルグソンの純粹持續」『教育學術界』臨時増刊号で56は、ベルグソンを熱心に紹介したが、1930年代に入ると、ベルグソンを次の様に批判した。
「時といふものが単なる連續として考へられるのではなく、非連續の連續として考へられねばならぬ如く、真の生命といふものも、かかる意味に於ける連續として考へられるものでなければならない。生命の一面には空間性、物質性がなければならない。ベルグソンの自己といふのは、單なる直觀的自己であつて行為的自己ではない。ベルグソンの自己には死といふものがないと共に、それは真に生きて働く自己ではない、眞の客観性といふものを有たない。我々の真の自己は歴史に於て生れ、歴史に於て働くものでなければならない。」57
さらに、初期同様、フィ一ドラーを常にモデルとしながら、主体の形成能力としての芸術創作の問題を論じるに止まらず、フィ一ドラ一に加えて、リーグルやヴオリンガーをモデルとしながら、歴史的形成作用としての芸術創作の問題へと明快にシフトしていった。
1920年代の芸術論では、自然は論じられても大きな意味を持たず、主体論の方向へと吸収されてしまっていた、と言えよう。これに対して、1941年の「歴史的形成作用としての藝術的創作」においては、自然は「環境」という概念に包摂され、「環境」は、気候、風土、地理、制度、様式、歴史、伝統と言った様々な意味を包含する概念として使用された。そこでは、「芸術」は以下のように規定された。
「歴史的形成作用といふのは、主體が環境を環境が主體を限定し、作られたものから作るものへと、矛盾的_己同一的に動き行くことでなければならない。主體と環境との矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界、即ち形が形自身を限定する世界は、絶對現在の自己限定として、
その相反する兩方向に、抽象面的に静カ的な形を有つ。詳言すれば、主體と環境との矛盾的自己同一として、形が形自身を限定する所に生きた現實の社會があるのであるが、かかる歴史的現實の社會は、その主體的方向に於て、抽象面的に、かかる矛盾的対立を越えて之を包む静カ的形を有ち、又その環境的方向に於て、抽象面的に、之を越えて之を包む静カ的力を有つのである。前者は藝術的様式と考へられるものであり、後者は科学的法則と考へられるものである。前者は主體的生命の_己表現と考へられ、後者は環境的世界の自己表現と考へられる。前者に於ては環境が主體に没し、後者に於ては主體が環境に没するのである。芸術的様式とは環境が主體に即した立場に於ての、歴史的世界のg己表現の形であり、之に反し、主體が環境に即した立場に於ての、歴史的世界の_己表現が科学的法則といふことができる。」58
西田の周囲にいた哲学者や美学者は、この西田の問題意識の変化を共有していった。即ち、それは、主体の働きを規定する、もう一つの次元たる客体と主体との関係をより積極的に考察する事、繰り返せば、「環境」という契機を導入して主体•環境論を展開する事であった。
西田とともに、「主体」と「環境」の関連を哲学的に考察したのは、三木清であろう。1931-32年の『歴史哲学』に於いて、気候、風土、地理、自然と言った、テーヌの環境学説を紹介しながら、環境が主体との関係において初めて意味を成すことを強調する。
「普通考へられるところでは環境とは一般に或る外的なもののことである。そして我々もまた多くの場合このやうな考え方を無雑作に受け容れている。然しながら、既に述べた如く、環境は歴史的なものにとって構成的な意味を有するとすれば、それは單に外的なものとは云われ得ない。(…)」59
「主體的事実との関係に於て客體的存在は凡て環境と見られ得るのである。」60
「人間は働くものであり、彼等の周圍の自然は彼等によって働きかけられるものとして環境といはれるやうである。(•••)人間は自然に働きかけると同時に自然から働きかけられる。個人に対して社會が環境と考へられる場合も同様である。」61
両者はまた、三木の場合、「構想力の論理」という契機によって互いに関係付けられることになる。
「(•••)あらゆる歴史的なものは環境において存在し、環境に働き掛けると共に環境から働き掛けられる。それは環境を限定すると共に環境から限定されることにおいて同時に主體として自己を自己によって限定してゆく、そこに歴史的な形が作られる。構想力の論理はかやうな歴史的な形の論理として考へられるのである。」62
「主体」と「環境」の結合点たる「構想力」はまた「行為」や「行動」とも言い換えられた。「(•••)行爲と環境とは不可分の關係にある。環境が行為を作り、行為が環境を作り、兩者は一つに結び附いている。かやうにして我々の行為は成全的行動(integrative behavior)といはれる。成全とは二つの活動即ち主體の活動と環境の活動が關係することの間における結合であり、この結合は機械的ではなく創造的綜合であってそのさい價値が創造されるのである。行動は單に主體的なものではなく、全體的行動としてかかる成全的行動である。成全作用(integration)は創造的原理である。」63
従って、所謂、環境決定論は否定され、主体と環境の相互作用というに止まらず、主体による主体•環境関係の再規定として、両者の関係が説明される。
「環境と行動とは相互に影響し合ふが、この関係は相互作用に止まるのではなく、却つて循環反應といはれるやうに行動は一つの全體的行動として、二つの行動を自己において一つの全體に綜合するのである。」63
「環境が人間に作用するのは、人間が環境に作用するからである。ここに地理的決定論もしくは風土史観の限界が見出されるであらう。行爲は循環反應として自己創造的な齊合性を有してゐる。それは全體的行動、成全的行動として形を具へたものになる。我々の行爲はすべて形を有していゐる。」64
主体論から主体•環境論への哲学的展開は、芸術学の領域にも波及する。その代表は、植田寿蔵と木村素衛であった。
西田に学んだ美学者、植田寿蔵は、1924年の『芸術哲学』において、「写実」批評が視点に据えた、芸術家とその環境である自然の関係性に創作の所在を求め、セザンヌをモデルに次のように両者の関係性を説明した。
「彼れの様に熱心に、近代の最も深大なる精神の一人ポオル•セザンヌも『自然に直面した、良い習作を望まねばなりません、之れが最上です』と言ひ、『ルウヴルは良い教科書です、併し、唯だ媒介者として役立ち得るのみです、多様なる自然の光景の研究のみが、真に必要であり、また功驗があるのです』と言ひ、『吾々は、唯だ、自然の研究によってのみ進歩することが出来るのです』と言ふのは(Cassirer : Kunstler briefe aus dem Neunzehnten Jahrhundert,1919,S.603-6)、四十年間を通しての、深刻を極めた文字通りに献身的な自然の研究の、言葉としての一閃である。藝術作品を自然よりも高く評價するのは、之等の大美術家の説くものに背くのではないか。」65
とし、自然と芸術家の真の関係を以下のように解説した。
「幸にして、その不遜を敢てする恐れはない。古来の大芸術家が自然を尊べと言ったのは、決して、他人が見る儘の自然を尊重せよと言ったのではない。吾れ自らの見る_然を尊重せよと言ったのである。そうして更に、彼が或る日の或る瞬間に見る自然の表象のみを尊重し、さうしてそれを模寫せよと強いたのではない。自分の目を以て、自然を深く凝視せよ、刻々に、より深く、若くはより精鋭に見よ、今まで見出し得なかった、自然の新しきものを見いだすことに努力せよと言ったのである。自然が限り無き藝術的價値を蔵すると考へそれを自ら見出す努力を命じたのである。彼とは何の交渉もなく、彼れより外に獨り存立するものと考へられる自然を尊重するのではない、彼の努力の對象と成り彼により深き視力を促すものとして自然を尊べと言ったのである。彼れの見る自然は、彼に働く藝術的理念の、觀照としての實現である。即ち古来の大芸術家が自然の尊重を主張したのは、彼等_身に働く藝術的理念の無限性を外界に投射して、_然と考へたのである。(•••)セザンヌが、如何に固執して、自然に於て見るものを畫くかを言ひ、さうして見るものを描く時には、以前のものを凡て忘れ去るのであると言ひ、さうして夫れが藝術家にその全人格を、大小に拘わらず表はすことを助けると言ふのも(Cassirer:Künstlerbriefe, S.607- 8 )自然を見ることによって、眞に新しい自己の尖端を見出すことを言ふのである。夫れ故にこそ、『畫家は自然の研究に全く自己を捧げねばならない』と言ふ彼が(S.605)『人は、•••自然に餘り服従しない、却て、多少そのモデルの、特に表現の方法の支配者である』と言ふであろう。」66
植田にとって、自然とは、芸術家という主体の、自然という客体に対する参与によって初めて立ち現れてくるものであり、既知の自然の見方ではなく、芸術家個人の見方の発見、獲得こそ、芸術家と自然との真の意味での接触の仕方であった。
この視点は、植田自身引用しているように、ヨアキム•ギャスケのセザンヌ論を参照することで得られたものである。生前のセザンヌと交流したギャスケのセザンヌ論は、セザンヌの言葉として多くの引用を行っているが、今日では、セザンヌ研究者、リウォルド、ドラン、レフによって、セザンヌの言葉の忠実な伝達としては疑わしく、むしろ、独特のロマン主義に立脚した、ギャスケ個人のセザンヌ解釈と判断されている。ギャスケのセザンヌ論は、フランスでの出版後、日本でも直ちに翻訳が試みられ、日本人のセザンヌ像形成の重要な資料となった。
当時の翻訳状況は以下の通りである。
- 中井宗太郎『近代藝術概論•全』ニ松堂書店、1922年、197-209頁。
- ジョアシェン.ギャスケ(高村光太郎訳)「セザンヌ抄」『木星』第2巻第1号、1925年、1-4頁。
- ジョワシェン•ギャスケ(高村光太郎訳)「風景の前で語るセザンヌ(1)」『大調和』11月号、1927年11月、2-15頁。
- ジョワシェン.ギャスケ(高村光太郎訳)「風景の前で語るセザンヌ(2)」『大調和』12月号、1927年12月、31-42頁。
- ジョワシェン.ギャスケ(高村光太郎訳)「畫室で語るセザンヌ」『大調和』4月号、1928年四月、86-89頁。
.ジョアキム.ギャスケ(岡見富雄訳)「セザンヌ礼賛(2)セザンヌとル•ヴル」『美術』第10卷第2号、昭和10 (1935)年2月、16-21頁。
- ジョアキム•ギャスケ(岡見富雄訳)「セザンヌ礼賛(3)セザンヌとルーヴル」『美術』第10巻第3号、昭和10 (1935)年3月、12-17頁。
- ジョアキム•ギャスケ(岡見富雄訳)「アトリェに於けるセザンヌ」『美術』第14巻第10号、昭和14 (1939)年10月、41-51頁。
- 中井あい「セザンヌ覚え書(その1)『みづ東』第405号、昭和13 (1938)年11月、489-501頁。
.中井あい「セザンヌ覚え書(その2)『みづ袅』第409号、昭和14 (1939)年11月、202-219頁。
- ジヨアシャン•ギャスケ(成田重郎訳)『畫聖セザンヌ』東京堂、1942年。
ギャスケのセザンヌ論は、後にメルロ •ボンテイによる現象学セザンヌ論の貴重な資料として活用されることになるが、早くは、高村光太郎、第I章でも紹介した中井宗太郎や夫人の中井あいと同様、ギャスケのセザンヌ論の重要性を植田は気づいていた。しかし、植田は、セザンヌが書簡で展開した、_然の観察と芸術的感覚のバランスを重視する考え方、言い換えれば、芸術家の自然との接触による新たな芸術性の発見、ないしは相互のダイナミックな関係による芸術的感覚の変貌よりも、主体にあらかじめ内在する「視覚性」や「意志」にむしろ力点を置きそこに芸術性の所在を求めている。これは、以下のような件から明らかであろう。1935年の『芸術史の課題』で、再びセザンヌをモデルに芸術家と自然の関係を解説して、
「自然は、實に、その意志によって、「それを見る者としての人々の」活動を産出するのである。それが普通に考へられるやうな、美術家の目と全く獨立な、異種的な存在ではなくて、美術家の目として作用する視覚性と全く同一の、然し、より高い次元のものであることは先に考へた通りである。(•••)芸術家が、自然を•自己の受取る自然を•飽くまでも尊重するのはいかなる外のことでもなくて、自己の深底を尊重するのである。「自分の前にあるものを畫き、なるだけ論理的に表はすやうに固執することです。自然の論理を會得したまへ。私は決してそれ以外のことはしない。君を待つている發見などを空想するのではありません。實技の進歩のために進みたまへ。自然以外に何ものも無い。目はこれに接觸して自分を練るのです。それは見ることと仕事することによって同心圓的に成る、一つの頂點、効果の強い、吾々の目に最も近い點を見るのです」とセザンヌも言つたのは〇 (Gasquet,Cézanne,p.l46)」67
「山川、平野、港、都市、いかに廣く、またいかに多様でも、視覺に映ずる「環境」は唯だ視覺性が産出するのみである。それが無限の多様性を持つのは、勿論この視覺性の意志の無限によるのである。」68
従って、「写実主義」とは植田にとって、「知識的判断」を予想するものではなく、「人間の目が真実として受取るやうな統一」、即ち「作風」を持つものであった。
「(•••)正しく理解せられた寫実主義とは、(…)素描と色彩とに於て明晰な細部を持つ作風といふことである。言ひ換えると、作品以外のものを標準として、それに一致するか否かを言い表はす知識的判斷を豫想する概念ではなくて、作品そのものに於て、直ちに見ることのできる特徴そのものを言ひ表はす概念である。(•••)美術家が、彼れの見る自然を忠實に畫いて、素描と色彩の明晰な細部を持つ繪を畫き上げた時、人はその繪を、一々自然に比較するのではなく、直ちにそれを寫實主義的であると言ふのである。それは自然の對象が持つやうに、人間の目が眞實として受取るやうな統一をもつて畫かれてゐるからである。」69
別の表現をすれば、芸術作品の創作とは、芸術家が_然を見ることのうちに立ち現れる芸術性の表象作用であって、この行為から独立して存在する予めの自然を模写することではないと説明した。
「藝術作品が創作せられるのは、彼と彼を取巻く環境の「影響」によるのであると、吾々も、一つの意味に於て十分言ふことができる。即ち、自然の環境が藝術家を規定する、もしくは、これに影響するといふ言ひ方が、單に、藝術家が彼れの周囲に見出す自然を創作の對象とするといふことのみを意味するなら、それは勿論、右にも言つたやうに正當である。唯だ、その場合、このやうな言葉を使用することは、藝術家が彼れの周圍に見出すものが、彼が自然を見ることとして現れる藝術性の表象そのものであるといふ事實を正視するかはりに、彼が見ることとは獨立に、外界に獨り存在する自然が、単に「模寫」せられたに過ぎないのであるといふやうな、有りがちな誤解を誘はないために、用意ある人々からは、むしろ避けられるべきであらう。彼が住む社會、もしくは時代、彼が周囲に見出す人々、それらの人々に彼が住む社会、もしくは時代、彼が周囲に見出す人々、それらの人々に特有の服装、態度、當時の歴史的事件、すべてが彼れの創作の對象と成るかぎり、それは自然の環境についてと同様に考へらるべきである。彼が一人の藝術家としてそこに見るものは、すべてが彼として働く藝術性の産出するものである。唯だ、彼れの属する時代もしくは民族が、単に描寫の対象としてだけでなく、より深く彼れの世界觀、殊にも藝術に對する彼れの態度について、特殊な影響を與へるのではないのかと問はれるのなら、右の答へは、直ちにそれに對する答へを含んではゐないのである。」70
従って、植田がパノフスキーの美術史を否定したのは当然の成り行きであった。植田は、芸術性として、パノフスキーが明らかにする「概念」や「象徴」に、「視覚性」を対置させた。
「知識によって初めて捉へられるものは、畫かれたものではないのである。繪畫に表はされてゐる「人」とか「空」とかいふものは、パノフスキイが言ふやうに、「描寫せられたものの象徴」なのではない、それによって「純粋に形式的な範圍から、意味の領域に成長する」のではない、それ自身直ちに、そこに畫かれた色と形の内面的な統一としての意味、即ち、視覺性そのものである。單なる抽象的概念ではなく、明白に目に見える客観的な存在である。唯だ、それを「人」とか「空」とか言ふのは、単に便宜上、その視覺性が構成に参輿してゐる「もの」の名を籍るに過ぎない。その「もの」を、色と形の記號によって語らうとするのではないのである。」71
植田は「写実主義」という言葉を先に引用した一文以外には使用していないし、「写実」という言葉は一切使用していない。しかし、セザンヌをモデルとした、芸術家の自然に対する主体的関与に芸術性を指摘する彼の芸術論は、同時代の「写実」の美術批評と芸術理解に関する同じ認識システムを共有していたと言えよう。
さらに、植田にとって、芸術作品と「環境」の問題は、「自然」という狭い意味ではなく、より広い意味を持って、1935年の『芸術史の課題』では考察された。この点で、植田は美術批評家たちが展開した「写実」論より遙かに広い思考の枠組みを以て、芸術を考察した。その模範は西田であり、西田の「環境」論を植田は借用し芸術論として展開している。植田は、かつて、1925年の『近代繪畫史』において、西田の使う「人格」を「芸術的人格」と言い換えたが、72
同様に、30年代に入ると、「芸術的環境」と言い換えて、以下のように、「芸術的存在」について考察した。
「一つの美術作品を考へることは、•一つの部分を考へることは、いつでもこれに對立する他のさまざまな部分を豫想するものだから•必然的にこの環境を、即ち美術家がそのうちに住み、そのうちに自分の對象を見出す風景、都會、國土と、彼れの周圍に存在する美術作品を豫想しなければならない。すべてこれらの「周圍」を總括して、「藝術的環境」と言ふことができる。實に藝術史の研究は、個々の作品、個人の藝術家を初め、すべての段階の藝術的存在と、その藝術的環境との關係を明らかにするのである。」73
西田門下の木村素衛にとっては、西田の「環境」は、「表現的環境」と言い換えられ、「表現的主体」と共に、芸術創作の契機として分析された。木村においても、西田、植田と同様、環境は 主体との関係において初めて環境として成立すると考えられた。
「具體的な表現的生命活動に於ては、直接我々が出逢うところのものは單なる素材ではない。外なるものは單に主體からの形成的加工を待つに止まるものではなく、却て常に主體に語りかけるところのものである。表現的世界に於て外の契機を成すものは素材ではなくして、みづから我々の表現的意志に語りかけて来る表現的環境である。歴史が人間の表現的生命過程であるなら、外とは歴史的環境に他ならないのである。我々は素材よりも前に先づ歴史的に生み出されたもの、表現的に作られれたものに出逢う。人間は本来かかる世界の内に生み出され、育ち、みづからも作り、そして死滅する。そこでは外とは作られたものとして見出される世界である。(•••)表現的環境は言葉なき言葉を以て常に主體に語りかけてゐる。我々が外として直接に出逢ふのはかくの如き世界である。」74
植田が「視覚性」という主体の側に依然として重点を置いて「芸術的環境」と主体との関係を論じたのに対して、「表現的環境」と「表現的主体」は、「表現」という契機を媒介として初めて同時に相互的に成立する、と木村は考えた。この点で、木村は西田により忠実な視点を選択している。」
「單なる土地と云ふものは何処にも存在しない。それは常に特定の斜面であり、或いは平面であり、或いは人の行程を遮斷する山稜であり、海に或いは川に續く面である。地はそれぞれの相を有つている。地は処女地に於ては成る程人間が手を下して作つたものではない。而も地はそれぞれの地相に於て人間の意志をそそのかし語りかけて來るのである。地と人間とはそれ故互いに表現的交渉に於て或ると云はなければならない。相互に表現的に限定し合ふ關係、互いに作り作られる關係に在ると云はなければならない。この意味に於て表現的環境は、原理的にまた本質的に、作られたものの性格を、即ちオブエクトでありつつ同時に精神的である性格を擔はなければならないのである。」75
木村によれば、さらに「表現的主体」と「表現的環境」は、弁証法的関係におかれている。「表現的主體はかくの如き環境に對するものとして初めて本来的意味に於て表現的主體であり得る。表現的主體は、それ自身としてはいのちなき素材的自然に自己を刻み込むことに依て表現的主體であるのではない。主體は語りかける外に對して應ふる内として、初めて本來的意味に於ける表現的主體性を獲得するのである。表現的世界といふのも、主體と環境とのかかる聨關に於て初めてその本来の意味に於て成立する。主體はもとより環境ではない。それらは相互に他者である。而もかかるものが上の如き聨關において結びつくところに表現的世界が成立する。だから表現的世界はそれ自身の内に否定の原理を含んだ世界であると云はなければならない。否定を媒介にして初めて内と外とは互いに表現的に交渉し、これに依て表現的世界は動くのである。それは本來辨證法的世界にほかならない。」76
(3)「人格」、「精神」、「生命」から「形成」、「構想力」論へ
主体と環境の関係が、主体が環境との弁証法的関係によって、主体と環境を常に新たな形で再構成してし続けて行く事にあるとすれば、30年代のもう一つのテーマは、この構成過程の分析にあった。1920年代の西田の芸術論の核となった「人格」概念に「形成作用」なしは「造形」の意味が含まれていたことは先に指摘したが、西田は、この問題に十分、分析を加える事なく終わっていた。この問題を掘り下げたのは、以下で見ていくように、西田の弟子、三木清と木村素衛であった。
三木にとっては、「構想力の論理」、木村にとっては、「表現」という概念によって、「形成作用」ないしは「造形」のメカニスムが分析された。両者の成果は、同時代の「写実」批評が注目した「造形」の問題に、図らずも、理論的枠組みを授けている。
三木の「構想力の論理」のポイントを以下に拾い出して行くことにしたい。
まず、「構想力の論理」は、「創造そのものの論理」であり、西田と同様、三木にあっても、芸術創作が思想形成のための重要なモデルとなっていた。
「構想力の論理は創造以前のものでなく却て創造そのものの論理である。しかも創造の論理は超越論的性質を有するのでなければならない。超越なくして創造は考へられない。」77
換言すれば、構想力とは、また「形」の発見であるとする。「発明」を例にとりながら、「技術はその本質において發明であり「發明の論理」といはれるものは構想力の論理である。發明は明らかに科學を前提し、これに反することは不可能であるけれども、それはつねに一般法則からの合理的推論以上のものである。發明とは形を見出すことである。形の論理、従って構想力の論理を除いて發明は考へられない。」78
あるいは、「技術」を例にとりながら、「構想力の論理」とは「形の論理」である、とする。即ち、無限定の空想ではなく限定された形を作り出す過程、内面意識から脱却して目に見える外観を持った形、形なき形ではなく、具体的形を持った形を作り出す過程にほかならない、と主張した。
「あらゆる技術にとって一つの根本概念は形Formの概念である。技術によって作られたものはすべて形を有し、技術的活動そのものも形を具へてゐる。形の見られる限り、技術が見られることができる。自然も技術的であると考へられるのは、すべて生命を有するものは形を有するところから考へられるのである。生物の形は進化論者が云ふやうに生物の環境に対する適應として、それ故に主觀的なものと客觀的なものとの統一として生じたものと見られることができ、その限りそこに自然の技術が見られるのである。そして我々に依れば、かやうに形の見られるところに構想力の活動が見られ、構想力の論理とは形の論理である。構想力の哲学は無限定な空想に道を拓かうとするものでなく、却って形といふ最も限定されたものに重心を有するのである。」。」79
構想力は、「形となる欲望や意志」である。
「欲望や意志が形となるのでなければ、それは技術の中へ入ることができぬ。かやうに形となる欲望や意志がまさに構想力である。構想力において主觀的なものは形となって主觀から抜け出るのである。」。」80
従って、三木において、西田がベルグソンを批判したように、主観的な意識状態の分析に終始したベルグソンの内在論は批判の対象となった。
「構想力は決して單に主観的なものではない。却つて構想力の自由な作用において主觀的なものは形となって主観から超越する。人間の技術的行爲、意識の内部における現象に止まらないこの行爲のうちにこそ、構想力の論理が認められるのである。」81
「ベルグソンも生命は緊張であると述べてゐるが、彼の哲學の缺陥は生命を純粹流動と見て形といふものについて考へてゐない點に懸つている。」82
西田のベルグソン批判と同様、三木の批判が正当なものであるかどうかは、又別問題である。ここでは、この問題は議論しない。さしあたって、三木がベルグソンを批判する事を通して、主体の行為的側面、それが創り出す目に見える形の問題を強調する議論を行った事に注目しておこう。
形は予め存在する形ではなく、経験や行為を待って成立する。
「(•• •)技術は超經驗的に豫定的に先行する形を見出すに過ぎないとしたならば、技術が歴史的なものであるといふことは考へられぬ。形は<技術的行爲>に先立って存在するのではなく、この行爲そのものにおいて形成されるのでなければならない。」83
従って、構想力の生み出す形は、「身体的自己の先端である」「感覚」を出発点としている。「(•••)構想力の生産性は、以前に我々の感覺能力に全く輿へられなかった感覺表象を作り出すことができるといふ意味に解されてはならぬ。構想力は如何に偉大な藝術家、いな魔術師であるにしても、かかる意味において「創造的」であるのではなく、却つてその形成に對する素材を感覺から取つてこなければならぬ。」84
構想力の論理は、芸術創作をモデルとしていると冒頭で述べたが、三木は、構想力を、「造形力」と言い換えている。
「構想力の本質は綜合し統一すること、かくして形を作ることにある。コールリッジユが巧に表はした如く imaginationはesemplasticpowerである。それはesemplastic (•••)即ち一つに形作る、形の統一をもたらす力である。」85
別のところで、essemplasticは、まさしく、「造形力」と言い直される0「習慣もまたコールリッジユのいわゆるessemplastic「造形力」としての構想力の作用の結果である。」86
従って、「構想力はすぐれて芸術家的な能力である」。
「デルタイなどのいふ如く、構想力はすぐれて藝術家的な能力である。藝術家は單に知るのではなく、物を作るのである。藝術作品は感覺的な、物質的な物である。構想力の論理は單なる認識の論理ではなく、何よりもかかる•物の生産の論理•である。」87
一方、木村素衛は、三木の一般論とは違って、フィードラーを参照しながら、芸術創作の問題に焦点を絞りながら、主体と環境の関係、「造形」の問題を「表現」という視点から解明していった。「表現」とは次のように規定された。
「内的直観に於ける感性化は實際實在化へすなわち單に内的であるものを外へ押し出す(aus-druken, ex-press)ところの表現へ進まなければならない必然性に於て在るのである。藝術家の眼はかくして手を必然的に要求する。否彼に在つては手と離れた單なる眼は最初から存在しないのである。眼に於て直ちに手が、手に於てそこに眼が彼れに於ては常に一つのものとしてのみ働く。」88
「表現の弁証法」は、三木の「構想力の論理」よりもさらに具体的に芸術創作のプロセスに即して、「時間」、「身体」、「素材」、「環境」といった諸契機との閨連で説明された。
「表現」における「時間構造」は、のみによる彫刻制作を引き合いに出しながら、以下のように説明された。
「鑿の眼としての今はかくして過去と未来を繋ぎ、物質と觀念を媒介する。今をして過去としての現前の姿を不満を以て見せしめるものは實に未來でなければならぬ。今は未来から引き寄せられることに依ての視覺の自己發展に他ならないのである。不満としての今の本質はかくの如くにして實に自己否定性、自己超克性に在るのである。表現活動の時間はそれ故まさしく辨證法的時間と呼ぶ得べきである。」89
木村は、端的に、「表現」の「時間構造」を、「過去を止揚しっっ未来へ向って創造的に發展するこの時間構造」90と要約するが、それは、「未来を目指して進む次元」と「今此処において直ちに永遠ならしめ無限ならしめる次元」、二っの時間軸の交差点に位置するとした。
「かく考へるならば従って表現活動は云はば二っの次元の交錯點に於て働き、作品はまたこの交錯點に常に位置を占めると云ふことが出来るであろう。一っは即ち流れに於て未来を目指して進む次元、他はこの方向に於ける各點を今此処において直ちに永遠ならしめ無限ならしめる次元である。」91
木村は、この「表現」の過程を、また、「形成」という言葉で言い換えている。
「表現とは上に内を外に現はすことであり、精神を自然に於て實現することであると述べられた。かく云はれる際、精神とは何を意味するのであるか。内を外に現はすと云ふことは表現的生命の働きである。(•••)我々が意味する表現は、その本質とその廣さに於て、一般に形成と呼ばれることが的確であるとも云へるであろう。」92
「表現」即ち「形成」は、第二に「身体」を契機とする。
「身體は表現的生命の一っの契機を成す内なる精神的なものが、他の契機である外に己れを形成的に表現する際の内と外との表現的媒介契機を成すところにその特有の意義を有っのである。」93
「身体」は、木村によれば、「物質的自然」と「主体」に属するというニ面性を持っ。そうした身体の「矛盾の自己同一」が身体に「形成の能力」を授けているとする。
「身體の最も重要な本質はそれ故それの形成性に求められるのでなければならないであらう。この點から云へば身體とは自然に喰い込んだ意志であると規定することができる。身體は云ふ迄もなく物質的自然の一部分として自然に屬し、その一切の運動は自然律の下に置かれている。而も同時に身體は主體に屬し、内なる意志に従て動き意志を實現する。ここに身體の辨證法的性格がある。それは精神の自己否定であると同時に物質の自己否定なのである。かくの如き矛盾の自己同一であるが故に身體は形成の能力を有ち、表現的生命は身體を媒介として自覺的にみづからを表現することができるのである。だから身體は歴史的自然が自己の物質面に喰い込ましめてゐる創造的意志の尖端であると云はなければならない。」94
「表現」、「形成」は、第三に、「素材」を契機とする。
「表現が内なるいのちを形成的に現はすものである以上、素材が表現的生命の不可缺のー契機を形作るべきことは明らかでなければならない。」95
最後に、「表現」、「形成」は、既に紹介した様に、「素材」以上に「環境」を契機としている。「具體的な表現的生命活動に於ては、直接我々が出逢ふところのものは單なる素材ではない。外なるものは單に主體からの形成的加工を待っに止まるものではなく、却て常に主體に語りかけるところのものである。表現的世界において外の契機を成すものは素材ではなくして、みづら我々の表現的意志に語りかけて来る表現的環境である。」96
「
(4) 写実」のセザンヌ受容の理論的枠組みとしての京都学派の芸術論
京都学派が問題にした主体•環境論の環境とは、「写実」批評が問題にした「自然」に限定されて使われていないことはこれまで見てきた様に自明のことである。しかし、「写実」批評が、芸術創作を芸術家の内面的主体の問題として捉える人格主義の立場から脱却して、自然、ないしは、客体と主体との弁証法的関係に眼差しをシフトさせている点は、まさしく、同時代の京都学派の思想環境に包摂された展開であった、と解釈できる。
さらに、主体と環境との間に成立する創造活動、三木によれば、「構想力」ないしは「造形力」、木村によれば、「表現」ないしは、「形成」こそ、「写実」批評が、その分析の対象とした「造形」を理論的に支える思考の枠組みとなって同時代に共存していた、と見ることができよう。
「写実」批評は、セザンヌを中心とするフランス近代美術の「造形」を具体的に「単純化J、「幾何学化」、「変形(デフォルマシオン)」、「省略」、「強調」といった概念で明らかにしていった0三木や木村の理論に、そのような具体的言及はない。しかし、図像学、技法等の解釈、作品の歴史的位置付け、ましてや伝記等事実関係の収集整理ではなく、創作する作者の立場に立った制作論を中心に据えた芸術論の確立に植田、三木、木村が専心した事は、「写実」批評が画家を中心に提出された一種の創作論であった事と符合する。
西田は「美と善」の中で次のように述べている。
「一度は藝術家が物を見ると同一の態度を以て物を見なければならぬ、藝術家が物其者の中に生きる如く一度物其者の中に生きて見なければならぬ。」97
と。
今後の展望をニ、三挙げて本稿を締めく くりたい。
本稿では、「写実」批評の生成と京都学派の展開を共時的動向として関連付けたが、具体的な交渉、交流関係の実証を行うとすれば、さしあたって、京都学派と京都学派の近くにいた須田國太郎の触発関係が明らかにされる可能性があるだろう。が、これは、本稿にとって細部の問題となり、考察は今後の調査課題としたい。
「写実」批評は、40年代に入ると、ルネサンス以来の「レアリスム」の意味へとすり替えられていく。そこには、戦争画を擁護する理論作りという背景があったものと推測できる。そして、三〇年代の「写実」批評が練り上げた「写実」の独特の意味は失われていった。この、新しく台頭してきた平凡な意味での「写実主義」からセザンヌを解釈する批評は勿論書かれることはなかった。しかし、既に20年代に登場してきた、日本美術との類似からセザンヌを評価する批評が再び盛行する。即ち、ナショナリズムを背景とするセザンヌ受容である。この問題については、稿をあらためたい。
注
1)「1910年代前後の日本におけるセザニスム(セザンヌ芸術の受容と紹介)」(平成元年度文部省科学研究費奨励研究(A))、1990年、1-33頁。「1930-40年代の日本におけるセザンヌの受容」(平成10-13年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(c) (2)研究成果報告書研究代表者:永井隆則)、2002年、1-96頁。
2)木村莊八、「近代繪畫の道(下)」、『みづ東』第206号、大正11(1922)年4月、2頁。
3)木村、同上、3頁。
4)川路柳虹「寫實の大道」『みづ東』254号、大正15 (1926)年4月、154頁。川路、
5) 同上、154頁。
6) 川路、同上、155頁。
7) 川路、同上、255頁。
8) 伊原宇三郎、「新寫實の研究.寫實及新寫實主義雑感」『アトリエ』第8巻第9号、昭和6(1931)年 9 月、46頁。
9) 伊原、同上、48頁。
10) 伊原、同上、51頁。
11) 伊原宇三郎「レアリズム研究.新しいレアリズム」『美術新論』第8巻第1号、昭和8(1933)年1月、10-12頁。
12) 伊原、同上、11頁。
13) 中山巍「新寫實の研究•寫實及新寫實主義雑感」『アトリエ』第8巻第9号、昭和6 (1931)年9月、58頁。
14) 中山、同上、60頁。
15) 伊藤廉「新寫實の研究.現代フランスの繪畫上に於ける寫實の形式」『アトリエ』第8巻第9号、昭和6 (1931)年9月、63頁。
16) 内山義郎「レアリズムに就いて」(レアリズム検討)『アトリエ』第15卷第1号、昭和13(1938)年1月、18頁。
17) 相良徳三「寫實主義繪畫論(ニ)」『アトリエ』第15巻第2号、昭和13 (1938)年2月、63-64頁。
18) 相良徳三「寫眞と繪畫.新寫實主義繪畫論(四).」『アトリエ』第15巻第6号、昭和13(1938)年 5 月、47頁。
19) 矢橋六郎「レアリズム一考」『アトリエ』第15巻第2号、昭和13 (1938)年2月、56頁。
20) 植村鷹千代「レアリズムとアブストラクト•アート」、『アトリエ』第15巻第2号、昭和13(1938)年 2 月、69頁。
21)柳亮「レアリズムの限界(下)」『新美術』第16号No.458、昭和17 (1942)年11月、6-7頁0
22) 柳、同上、13頁。
23)中山巍「寫實主義寸感」『アトリエ』第15巻第2号、昭和13 (1938)年2月、53頁。
24)中井あい「セザンヌ覺え書(その三)」『みづ裒』第410号、昭和14 (1939)年3月、315頁。
25)中井宗太郎『近代藝術概論全』大正11(1922)年、ニ松堂、159-209頁。
26)中井あい「セザンヌ覺え書(その四)」『みづ袅』第411号、昭和14 (1939)年4月、471頁0
27) 中井あい、同上、474頁。
28) 福田新生「リアリズムとデフォルマシオンに関して」『みづ東』第339号、昭和8 (1933)年5月、265頁。
29) 福田、同上、266頁。
30) 山下新太郎「デフォルマシオンに就て」『アトリエ』第10巻第7号、昭和8 (1933)年7月、26頁。
31) 山下、同上、27頁。
32) デフォルマシオンについては、以下で特集が組まれ、多くの画家の考察の対象となった:デフォルマシオン考察:黒田重太郎(「デフォルマシオンの史的考察の一班」)、安井曾太郎(「デフォルマシオン」)、硌伊之助(「デフォルマシオンの意義」)、林武(「デフォルマシオンに就て」)、里見勝蔵(「デフォルマシオン」)、本郷新(「彫刻に於けるデフォルマシオン」)、『アトリエ』第13巻第1号、昭和11(1936)年1月、17-27頁。
33) 安井曾太郎「レアルの研究•寫實とセザンヌの絵」『美術』(レアル特集号)第10巻第2号、昭和10 (1935)年2月、7頁。
34) 須田國太郎「近代絵画とレアリスム」『アトリエ』第259号、昭和23 (1948)年2月、35頁。
35) 須田「寫實主義の存在理由」『みづ系』363号、昭10 (1935)年5月、324頁。
36) 須田「セザンヌと自然」『同和』第5号、昭和14 (1939)年10月、3-4頁。本資料の所在は、原田平作氏よりご教示賜った。又、所蔵先の京都市美術館、篠雅廣学芸課長、清水佐保子学芸員に閲覧の便宜を図っていただいた。記して感謝申し上げます。
37) 須田、同上、11頁。
38) 須田「セザンヌの美学」『みづ東』第416号、昭和14 (1939)年8月、152頁。
39) 須田「セザンヌと自然」『同和』第5号、昭和14 (1939)年10月、6頁。
40) 須田、同上、7頁。
41) 須田、同上、8頁。
42) 須田「セザンヌの美学」『みづ東』昭和14 (1939)年8月、159-160頁。
43) 西田幾多郎「感情の内容と意志の内容」『哲學研究』第61号、大正10 (1921)年4月(『西田幾多郎全集第三巻』岩波書店昭和40年版、311頁所収)。
44) 西田「美と善」『哲學研究』第78号、大正11(1922)年9月(『同上』、岩波書店、昭和40年版、465-466頁所収)。
45) 西田「感情の内容と意志の内容」『哲學研究』第61号、大正10 (1921)年4月(『同上』岩波書店昭和40年版、320頁)。
46) 西田「藝術の對象界」『制作』第1巻第2号(『西田幾多郎全集第13巻』岩波書店昭和41年、123頁所収)。
47) 西田「感情の内容と意志の内容」『哲學研究』第61号、大正10 (1921)年4月(『西田幾多郎全集第3巻』岩波書店昭和40年版、321頁所J|又)。
48) 西田「眞善美の合一点」『哲學研究』第66号、大正10 (1921)年9月(『同上』岩波書店昭和40年版、360頁所収)。
49) 西田「美の本質」『哲學研究』第48、49号、大正9 (1920)年3、4月(『同上J岩波書店昭和40年版、274頁所収』。
50) 西田「現代の哲学」『哲學研究』大正5 (1916)年4月号(『西田幾多郎全集第一巻』岩波書店昭和40年、367-368頁所収)。
51) 西田「藝術の對象界」『制作』第1巻第2号(『西田幾多郎全集第13巻』岩波書店昭和41年、122頁所収)。
52) 西田「論理と生命」『思想』第170 •172号、昭和11(1936)年7 • 9月(『西田幾多郎全集第8巻』岩波書店昭和40年、273-394頁所収)。
53) 西田「生命」『思想』第267号、昭和19 (1944)年10月、267号、昭和20 (1945)年8月 (未完)(『西田幾多郎全集第11巻』岩波書店昭和40年版、289-370頁所収)。
54) 西田「私と汝」『岩波哲學講座』第8巻「社會と歴史の問題」に登載、昭和7 (1932)年7月(『西田幾多郎全集第六巻』岩波書店昭和40年、345-346頁所収)。
55)西田『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店昭和40年、317-326頁所収。
56) 西田、同上、327-333頁所収。
57) 西田「生の哲學について」『理想』第34号、昭和7 (1932)年10月(『西田幾多郎全集第六巻』岩波書店昭和40年、442頁所収)。
58) 西田「歴史的形成作用としての藝術的創作」『思想』第228 *229号、昭和16 (1941)年5 • 6月(西田幾多郎全集第10巻』岩波書店昭和40年、237-238頁所収)。
59) 三木清『歴史哲学』昭和6 (1931)• 7 (1932)年(『三木清全集第6巻』岩波書店昭和42 (1967)、77頁所収)。
60) 三木、同上、79頁。
61) 三木、同上、80頁。
62) 三木『構想力の論理』昭和12 (1937) •13 (1938)年(『三木清全集第8巻』岩波書店昭和42 (1967)年、17頁所収)。
63) 三木、同上、267頁。
64) 三木、同上、267-268頁。
65) 植田寿蔵『芸術哲学』改造社版大正13 (1924)年、156-157頁。
66) 植田、同上、157-159頁。
67) 植田『芸術史の課題』弘文堂書房昭和10 (1935)年、218-219頁。
68) 植田、同上、236頁。
69) 植田、同上、238-239頁。
70) 植田、同上、245-246頁。
71) 植田、同上、244頁。植田の図像学批判は、1910年代の初期批評にも既に明確に提示されている。拙稿「1910-20年代京都の美術批評と芸術論」岩城見一編『シリーズ近代日本の知第4巻芸術/葛藤の現場近代日本芸術思想のコンテクスト』晃洋書房2002年、103-118頁を参照のこと。
72) 植田『近代繪畫史論』岩波書店大正14 (1925)年、54頁。
73) 植田『芸術史の課題』弘文堂書房昭和10 (1935)年、217頁。
74) 木村素衛『表現愛』岩波書店昭和14 (1939)年、11-12頁(1940年版第2刷)。
75) 木村、同上、12頁。
76) 木村、同上、13-14頁。
77) 三木清『構想力の論理』、昭和12 (1937) *13 (1938)年(『三木清全集第8巻』岩波書店昭和42 (1967)年、63頁所収)。
78) 三木、同上、171頁。
79) 三木、同上、227頁。
80) 三木、同上、228頁。
81) 三木、同上、229頁。
82) 三木、同上、232頁。
83) 三木、同上、245頁。<>は筆者。
84) 三木、同上、330頁。
85) 三木、同上、267頁。
86) 三木、同上、323頁。
87) 三木、同上、424頁。• •は筆者。
88) 木村素衛『表現愛』岩波書店昭和14 (1939)年、129-130頁。
89) 木村、同上、150頁。
90) 木村、同上、151頁。
91) 木村、同上、155頁。
92) 木村、同上、4-5頁。
93) 木村、同上、8頁。
94) 木村、同上、26頁。
95) 木村、同上、10-11頁。
96) 木村、同上、11頁。
97) 西田幾多郎「美と善」『哲学研究』第78号、大正11(1922)年9月(『西田幾多郎全集第3巻』岩波書店昭和40年、485頁所収)。
The « Shajitsu » Cezanne Reception and its Intellectual Environment
Takanori Nagai
In 1930s and 1940s Japan, the French painter Paul Cezanne (1839-1906) wasinterpreted using the critical term « shajitsu » (realism) in Japanese. « Realism » referred tothe manner in which the artist expressed the subjective reality he felt in Nature withoutmarring Nature’s external truth. This was qualitatively different from both the post-Renaissance naturalism and the realism that had permeated French “Académisme”sinceGustave Courbet (1819-1877). Such unique techniques as “simplification, » “déformation » and « abbreviation » were concretely identified as the types of « modeling » (zokei)whereby Realism was achieved. Cezanne was highly esteemed as the most representative ofthe modern artist that expressed an orientation toward this Realism.
What sort of intellectual environment was capable of establishing this realist criticism? In the present work, I explore the development of the Kyoto School centered onNishida Kitaro (1870-1945)as one of the backgrounds of this criticism.
In the 1930s,Nishida had abandoned the analysis of the subject’ s pure conscious-ness and was analyzing the subject’s actions in relation to the environment that surroundedthe subject. One could say that in place of subject theory he pursued the discussion of subject-environment theory. Nishida’ s followers Miki Kiyoshi (1897-1945), Ueda Juzo(1886-1973)and Kimura Motomori (1895-1946)also participated in this discussion andthe efforts of each bore abundant fruit. The perceptual system of the realist criticism thatfocused on the relationship between subject and environment was a critical movement thatwas subsumed by the philosophical development of the contemporary Kyoto School, which atthat time was beginning to explain the subject by introducing the aspect of the environment.In the second place, the Kyoto School attempted to explain the dialectical relationshipbetween the subject and the environment, with Miki using the « imagination » and Kimurausing the mechanism of « expression. » We can say that the development of this sort of theorization of creative action was a major conceptual framework that existed simultaneouslywith the realist criticism that attended to the act of « modeling » whereby reality was copied.