Ce que le séjour de Cézanne à Paris lui a apporté

Takanori Nagaï

 

Article paru dans Les nouvelles du Centre national d’art, Tokyo, Nr.22, mai 2012, pp. 1-2.

 

On a souvent pensé que Cézanne a été un peintre solitaire, une sorte de mystérieux ermite provençal.

Mais l’exposition Cézanne à Paris organisée par Denis Coutagne en 2012 a bien montré qu’il s’agit d’une interprétation, voire d’une illusion forgée dans le domaine de la critique d’art pour mieux attirer l’attention du public sur Cézanne.

L’étude qui suit met au jour ce que les séjours de Cézanne à Paris lui ont apporté selon trois points de vue :

  • l’impact artistique de Paris sur Cézanne ;
  • le bénéfice d’un réseau de relations humaines et artistiques ainsi que l’acquisition progressive de sa renommée en tant qu’artiste ;
  • la culture parisienne et son rôle dans la formation dans ce milieu de ses idées fondamentales sur l’art :
    • le libéralisme
    • le naturisme

Sans ses séjours parisiens, Cézanne n’aurait jamais pu définir son art propre ni le développer, et n’aurait pas pu connaître le succès, même tardif, dont il a bénéficié.

NB. : le terme “naturisme” a été utilisé par Pierre Francastel dans son livre sur l’impressionnisme en 1937. Il signifie le contact profond de Cézanne avec la nature avant que l’homme ne l’abîme par ses interventions. Ce naturisme, déjà nourri dans sa jeunesse en Provence par ses escapades avec Zola et Baille dans la campagne aixoise, est devenu un choix essentiel pour son propre art lors de ses séjours parisiens durant lesquels il déplore la modernisation croissante des conditions de vie qui s’accompagne de la défiguration des paysages.

 

セザンヌのパリ滞在の意味 

永井隆則

セザンヌ像の修正

「プロヴァンスの孤高の画家」というイメージは、20世紀初頭のセザンヌ(1839-1906)没後、広く流布してきた。その理由は、セザンヌの名前を最初に広める事に貢献した、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、ジョワシャン・ギャスケ、シャルル・カモワンといった若き芸術家たちが、晩年エクスで制作していたセザンヌと交流した記録を残したため、彼らが報告した老年のセザンヌの姿が、まず、セザンヌ像形成の材料となったからである。彼らの証言を下に、パリと隔絶した田舎に引き籠もって制作三昧に耽った、隠者セザンヌのイメージが次第に作り上げられていったと考えられる。

プロヴァンスという環境の中でセザンヌ芸術を理解する試みは、1980年代初頭以降、エクスのグラネ美術館やプロヴァンス大学のセザンヌ研究者達を中心に再燃してきた(Arrouye,1982)。その成果は、2003年、アメリカの研究者カルマイヤーが発表した大著「セザンヌとプロヴァンス」(Athanassoglou-Kallmyer,2003)、2006年、グラネ美術館とワシントン・ナショナル・ギャラリーを巡回した「プロヴァンスのセザンヌ展」(Denis Coutagne,2006)で集大成され、決して偏狭な地方主義に陥ることなく国際的に共有されるに至った。

これに対して、昨年、2011年、パリ、リュクサンブール美術館で開催された「セザンヌとパリ」展(Denis Coutagne,2011)は、これまで等閑視されてきた、セザンヌとパリ及びイル・ド・フランス地方との結びつきを明らかにしようとした画期的試みであった。20代の初めにパリに出て、修業を積みやがて印象派に加わるが、1880年代の40代以降、プロヴァンスに引き籠って制作に耽ったとするのが、これまでの一般的なセザンヌ像であったが、これに修正を加え、生涯、パリとの結びつきを保っていたことを明らかにした。しかし、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、スーラ、ロートレックなどが、パリ及び近郊の都会風俗や景観を描いたのに対して、幾度も滞在を重ねながら、殆どそれらには興味を示す事はなかった。展示された作品を見ているだけでは、セザンヌ芸術にパリ滞在が果たした役割は全く見えてこない。反対にパリ周辺のイル・ド・フランスの風景を数多く描いており、最晩年にもフォンテヌブローの森で制作に励んだ事から、唯一明らかなのは、パリが、郊外やイル・ド・フランスの田舎に出向くための拠点となっていた事実である。しかし、パリ滞在の意味はそれだけに止まらない。

書簡(Rewald,1937) や伝記(Perruchot,1956)に従って事実を復元していくと、パリは、まず、パリで出会った伴侶オルタンスと息子ポールをエクスの父親の目から匿う隠れ家の役割を果たした。更に、多くの人々と会い、多くの作品に触れて、知的芸術的刺激を受けて、自らの方向を探し確立した事、「林檎一個でパリを驚かしてやりたい」(Geffroy,1924)と宣言した通り、パリで画家として戦い続け最終的にパリで名声を確立した事は明らかである。

 

パリでの芸術上の刺激

エクスからパリに出て、美術学校受験準備のために通ったアカデミー・スイスやそこを介して知り合った若き画家たち(ピサロ、ギヨマン、ギュメ、アンプレール、ルノワール、モネ、シスレー等)との交流、ドラクロワ、クールベ、マネの絵画に衝撃を受けて目覚めた新しい絵画に関する自覚、サロン出品と度重なる落選を通して、若きセザンヌ芸術の方向は定まっていった。もし、セザンヌに経済力がなく、パリに頻繁に出かける事が出来なかったとしたら、古ぼけて行く新古典主義を有難がる地方画家に止まってしまった事はまず間違いない。ルーヴル美術館に通って晩年まで続けた古典研究は、新古典主義とは異質なフランスの真の伝統である古典主義とロマン主義並びにその源泉たる色彩派の伝統を核とするセザンヌ美学の形成に不可欠の養分となった。また、1865年のマネ展、1892年のルノワール展、ピサロ展、1895年モネ展などを見た可能性があり、パリで、現代美術の最先端の動向にも触れていた。

 

パリでの人脈と芸術家としての名声

セザンヌには、専ら晩年の情報から人間嫌いと孤立癖のイメージが形成されてきたが、生涯に渡り交友関係は実に幅広く豊かで、そのお陰で、セザンヌは世にその名が知られるようになった。ゾラを媒介とし、最初の印象主義論を発表しセザンヌ作品3点を所蔵することになる、批評家テオドール・デュレを知り、モネのジヴェルニー邸で、セザンヌ論を書くことになる批評家ギュスターヴ・ジェフロワ、作家のオクターヴ・ミルヴォ―、政治家のクレマンソーや彫刻家ロダンと知り合った。画家仲間のギュメの弟子として1882年、サロン初入選も果たした。文学者で美術批評家のロジェ・マルクスは、1889年の博覧会にドリア伯所蔵の<首吊の家>を出品することを決定したし、ブリュッセルの二十人会の推進者で文芸・美術批評家、オクターヴ・モーは、1890年代初頭、ベルギーでの展覧会にセザンヌ作品を招待出品した。エクスのセザンヌを訪問した二人の若き画家の内、エミール・ベルナールは文章で、モーリス・ドニは文章と<セザンヌ礼賛図>(1900年、オルセー美術館蔵)でセザンヌの名声を確かなものとした。

コレクターとの出会いもあった。1874年の第1回印象派展に出品した<首吊の家>を見て購入したドリア伯が、セザンヌの初のコレクターとなった。ピサロを介して知り合いオーヴェールで版画制作を共にしたガッシェ博士は、パリで開業する医者であったし、ルノワールを介して出会い共にドラクロワ礼賛者として意気投合したショケは、パリのリヴォリ通りのアパートでセザンヌのためにポーズをとったが、二人は、最初期の熱烈なセザンヌ・コレクターとなった。クローゼル通の絵具商タンギー爺さんは、画材費と引き換えにセザンヌの作品を譲り受けて店頭に飾ったが、そこは、1870年代末から90年代初頭にかけて謎の画家となったセザンヌの作品を唯一見ることの出来る場所となった。印象派画家でコレクターでもあった、カイユボットは、セザンヌも収集し、1894年の死後、彼のコレクションは、パリのリュクサンブール美術館に寄贈された。パリ、ラフィット街に店を開き1895年、セザンヌの初個展、1899年、第二回展を開いた画商ヴォラールは、セザンヌを本格的に世に送り出し作品の価格を吊りあげる事に成功し、セザンヌの死後、エクス、ローヴのアトリエに残された作品の殆ど全てを買い取った。パリの画廊、ベルネーム・ジュンヌもセザンヌの晩年と没後、ヴォラールと競って作品を収集した。こうして、セザンヌは、パリで培った人脈を通して、芸術的経済的に世に認められたのである。

個展のみならず、1899、1901、2年のサロン・デ・ザンデパンダン、1904、5、6年のサロン・ドトンヌと、頻繁に独立派のグループ展にも出品して、若い画家達の圧倒的支持を得、パリは晩年、活躍の舞台となった。没後の1907年、サロン・ドトンヌでは、セザンヌ回顧展が開催され、名声が決定的かつ世界的となった事は良く知られた話である。

 

パリの文化と思想形成

パリは、さらに、セザンヌ芸術を根底から支えた思想形成の場ともなった。自由主義と自然礼賛主義(naturisme)(Francastel,1937である。

①自由主義

産業革命以後、地方と他国からの移住者が、主要な住人となっていく異邦人の街、パリでは、人々は、因習的人間関係から解放され自由を享受することが出来る反面、互いに無関心で深い孤独も味わい、<個>としての強い自立を求められるようになった。セザンヌの通ったシテ島にあったアカデミー・スイスは、デッサンを教えたり油絵を手直したりする教師はおらず、月謝を払ってモデルを相手に皆が独学で学ぶ、自由主義の牙城であった。そこには、かつて、ドラクロワ、クールベ、マネも通い、セザンヌの世代では、古い絵画に飽き足らぬ若い画家たちが集って、反体制絵画誕生の温床、師も所属も持たず自由に制作に励むボヘミアン芸術家たちの溜り場となった。

カフェ文化(玉村、1997、2009)に触れた事もまた大きな意味があった。17世紀にパリに最初のカフェが開店して以来、18世紀には、ナポレオンをはじめとする革命家たちが出入りしたカフェ・プロコップ、1860年代、マネの仲間たちが集まった、バティニョール大通りのカフェ・ゲルボワ、普仏戦争後の1870年代初頭、印象派の画家たちの溜り場となった、ピガール広場のカフェ・ド・ラ・ヌ―ヴェル・アテーネ、1920年代、モディリア―ニ、ピカソや藤田嗣治など、エコール・ド・パリの画家たちがたむろしたモンパルナスのカフェ・ロトンド、1930~40年代、サルトルとボーヴォワールの実存主義の拠点となった、サン・ジェルマン・デプレのカフェ・ド・フロール、カフェ・ドゥ・マゴに至るまで、カフェは、様々な人々が集って自由に語りあう開放の場、新しい政治、芸術、哲学の発祥の場、様々な分野で革命思想が誕生する、体制側にとっては不穏な場として、独特の文化を形成してきた。セザンヌもまた、カフェ・ゲルボワ等で、マネ、ゾラ、モネら芸術家仲間の果てしない議論に同席して絵画の革命を夢見ていった。

若きセザンヌが反対体制芸術思想を持つに至ったのは、アカデミー・スイスとカフェ文化に象徴される、パリの自由と創造を育む環境に身を置いた経験を抜きにしては、説明し得ない。

セザンヌの交友関係に社会主義者が多く登場するのも、これに拍車をかけたはずである。面識はなかったが、パリ・コミューンに参加し社会主義者プリュードンと友人であったクールベの写実主義は、セザンヌが受けた最初の啓示の一つであった。ポントワーズでセザンヌに印象主義を教えたピサロはアナキストとなっていったし、医師ガシェは、社会主義者であり、絵具商タンギーは、セザンヌがパリを離れる際にはアパートの鍵を預けるほどの信頼関係にあったが、彼もまた、かつて、パリ・コミューンに参加していた。セザンヌは、生涯、政治活動に参加することはなかったが、彼らとの親密な交流は精神的安らぎを齎しており、セザンヌの芸術上のアナキスムを間違いなく決定付けた。

 

②自然崇拝主義(naturisme)

セザンヌは都市生活や景観を描く事はなく、イル・ド・フランスとプロヴァンスの自然を描くことに没頭した。これは、少年時代にゾラなどと培った自然崇拝主義が、パリという都市生活に触れて、自覚的に選ばれたと考えて良い。

セザンヌの生まれ育ったエクス=アン=プロヴァンスは、古代都市の名残りである街の中心を円形に取り囲む幹線道路から外に出ると、サント・ヴィクトワール山を背後に森や草原へとつながり、自然がふんだんに残っている。幼少年時代のセザンヌの最大の愉しみは、ゾラをはじめとする友人と、水遊び、狩り、登山、自然散策をして、手つかずの大自然に原始人の様に没入する事にあった。これこそ、セザンヌの原風景となった。

一方、同時代のパリは、1830年代ころから産業革命が本格化し機械製品が日常生活に入りこみ、パリと郊外を結ぶ鉄道が次々と開設され、サン・ラザール駅、リヨン駅などの駅舎と線路が町の新しい目印となった。22才のセザンヌが初めてパリに出て生活を始めたパリは、ナポレオン三世の第二帝政下、オスマン県知事による都市改造が進行中であった。産業革命を推進した資本主義の浸透は、振興ブルジョワと労働者階級を生み出し、地方からパリに人口が集中して、衛生、治安と人口過密の解消が緊急課題となる中、上下水道、舗装工事、凱旋門から放射する幹線大通り、高層アパート、公園、橋、街灯が次々と完備される事で、パリの姿は一変した。セザンヌが生きていた間、1855、67、78、89、1900年と万国博覧会が開催されたが、その都度、産業館、エッフェル塔、オルセー駅、グラン・パレ、プティ・パレ、アレクサンドル3世橋、エクトール・ギマールがデザインした地下鉄入口が建造され、パリの景観はドラマチックに変貌し続けた。度重なる万博の開催は、日本も含めて、世界各地の物品と最新の工業製品を目にすることが出来る、世界の中心都市=パリのイメージを作り上げていった。(松井、1997)

人口の集中はまた、娯楽、商業施設の相次ぐ開店を促した。従来からのルーヴル美術館は言うまでもなく、1875年のオペラ座、1869年開業したミュージック・ホールでマネが描いたフォリー・ベルジェールのバー、1876年ルノワールの描いたダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレットー、ロートレックがポスターを作ったキャバレー、1889年開店のムーラン・ルージュ、カフェ・コンセールのアンバサドゥール、世紀半ば以降次々に開業した百貨店、ボン・マルシェ(1852年開店)、オ・プランタン(1865)、サマリテーヌ(1869)、ギャラリー・ラファイエット(1896)によって、パリは、大衆消費社会のメッカ、世界中から様々な商品が結集する商業都市として飛躍を遂げた。

産業革命の波は、南フランスにも押し寄せ、地中海の窓口、マルセイユは商業の町として活況を帯び、マルセイユ近郊のエスタック、エクス近郊のガルダンヌという小さな町にも工場地帯が生まれ、フランスの国土、南北対極に位置するパリ-マルセイユ間、更にマルセイユ-エクス間も鉄道で結ばれた。父親の莫大な遺産で生涯、絵を売らずとも生活できた裕福なセザンヌは、当時の最新の蒸気機関車を大いに活用して、エクス-パリ間を生涯に20回以上も往復し、しかもパリに出るたびに長期に渡ってアパートを借りて居を構えた。ドラスティックに変貌し続ける活気に満ちたパリ-変わらぬ自然を保持するプロヴァンスが、制作の二つの拠点となったが(Arrouye,1995)、パリの近代性について語る事も描く事もしなかった。晩年のセザンヌは、プロヴァンスをも侵食してきた近代化に対して激しい憎悪を表明した(Rewald,1937,p.290)。パリ体験は、幼少年期の原風景、青年期に印象派の仲間達と分かち合った自然礼賛を強固にし、塾年以降、強烈な確信となってこれを甦らせ、反動的な力として、プロヴァンスでの制作の推進力となったと考えられる。

パリ滞在なしには、セザンヌ芸術の誕生、展開と成功はありえなかった。

(ながい・たかのり 京都工芸繊維大学准教授)

参考文献(Bibliographie)

Gustave Geffroy, Claude Monet sa vie, son oeuvre, Les Ēditions Crés et Cies, 1924, p.328
PierreFrancastel, L’Impressionnisme – Manet, Monet, Cézanne, Renoir, Gauguin., Van Gogh, Degas, Seurat, Denoël/Gonthier,Paris, 1937(1976)
Henri Perruchot, La vie de Cézanne, Librairie Hachette, Paris, 1956.(矢内原伊作訳『セザンヌ』みすず書房、1963)
John Rewald, Paul Cézanne – Correspondance,recueillie, annotée et préfacée par John Rewald. Nouvelle édition revisée et augmentée, Ēditions Grasset Paris, 1978.(ジョン・リウォルド編/池上忠治訳『セザンヌの手紙』筑摩書房、1967
Jean Arrouye, La Provence de Cézanne, Ēdisud, Aix-en-Provence, 1982
Jean Arrouye, Le temps Cézanne, Paris-Provence, Les Ēditions Textuel, Paris,1995
Nina Maria Athanassoglou-Kallmyer, Cézanne and Provence – The Painter in his Culture, The University of Chicago Press, Chicago, 2003
Denis Coutagne, Cézanne en Provence (Catalogue d’exposition), Musée Granet, Aix-en-Provence, 2006
Denis Coutagne, Cézanne et Paris (Catalogue d’exposition),Musée du Luxembourg,Paris, 2011-12
Rudy
 Chiappini, Cézanne Les ateliers du midi (Catalogue d’exposition), Palazzo Reale, Milano, 2011-12
松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』日本経済評論社、1997年
玉村豊男『パリのカフェをつくった人々』中公文庫、1997年
/『パリ・旅の雑学ノート カフェ/舗道/メトロ』中公文庫、2009年。